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第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川

天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ

関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。

矢沢薩摩守頼綱。真田幸綱(幸隆)の弟、真田昌幸の叔父。

矢沢薩摩守頼綱。真田幸綱(幸隆)の弟、真田昌幸の叔父。

矢沢頼綱というとドラマの影響からか、俳優・加藤嘉の顔が浮かんでしまう。矢沢頼綱は真田幸綱(幸隆)の弟であり、真田昌幸の叔父になる。特に沼田城代としての功績が大きい。北条氏の攻撃を何度も退けている。矢沢家は真田家臣団の最高位にあり、明治に至るまで筆頭家老であった。知行高は2,000石。

織田信長と織田五大将の官位

織田信長と織田五大将の官位

織田信長と織田五大将である柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉の官位についてまとめてみました。織田信長の家臣は、意外と高位高官のものがいません。豊臣秀吉の家臣とは、大きく違います。秀吉は天下統一もしてしまい、家臣を繋ぎ止めるために官位、羽柴姓、豊臣姓の乱発をします。信長と秀吉とでは、そこが大きく違います。

真田信尹。兄・真田昌幸の本家に尽力し、旗本・真田家を興す。

真田信尹。兄・真田昌幸の本家に尽力し、旗本・真田家を興す。

真田幸綱(幸隆)の四男であり、同母兄には信綱・昌輝・昌幸がいます。甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、加津野市右衛門尉信昌と称する時期もあった。武田家滅亡後は、真田本家のために尽力する。自身は、北条・徳川・蒲生・ふたたび徳川に仕える。大坂の陣では豊臣側の真田信繁を誘ったり、信繁の首の確認をする逸話が残されている。

武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂の最期

武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂の最期

武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂。梅雪・義昌については調略に応じ、武田家から離反します。信茂は自発的な裏切りで、織田信忠により処刑されます。この3人の造反は、武田家にとって大きな痛手となり、甲斐源氏の名門・武田家は滅亡してしまいます。今回は、この3人の最期についての記事投稿をします。

木曽義昌。武田勝頼を裏切り、晩年は関東移封。

木曽義昌。武田勝頼を裏切り、晩年は関東移封。

木曽義昌の正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。武田家を離反し武田氏征伐(甲州征伐)のきっかけを作る。それにより武田家は滅亡する。木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称するが、直系の先祖は藤原北家秀郷流を称する。北条氏直、徳川家康、豊臣秀吉と渡り歩くが、最後には、木曽谷の所領を取り上げられ、下総阿知戸に移封。

高坂昌元(春日信達)。父は「逃げ弾正」こと高坂弾正昌信

高坂昌元(春日信達)。父は「逃げ弾正」こと高坂弾正昌信

春日昌元(春日信達)が正しい名乗り。父は「逃げ弾正」こと高坂弾正昌信(春日虎綱)で次男。武田氏滅亡後は、織田家臣・森長可に属する。しかし、本能寺の変後、長可が信濃を脱出するのを一揆を扇動して阻止。最期は、真田昌幸の調略にかかり、上杉景勝に謀殺される。慶長年間になると、長可の弟・森忠政によって昌元の一族は残らず処刑。

竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘

竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘

竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘。信繁(幸村)とは真田幸昌(大助)、片倉守信、あぐり(蒲生郷喜室)、菖蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)をもうける。関ヶ原の戦い後、幽閉された九度山での生活は厳しく、生活を支えるために真田紐を考案したとされる。現状では信頼できる資料が少なすぎる。

山手殿(寒松院)。真田昌幸の正室、「真田丸」では薫。

山手殿(寒松院)。真田昌幸の正室、「真田丸」では薫。

「真田丸」では薫という名で女優・高畑淳子が演じる。真田昌幸の正室・山手殿。子は、長女の村松殿、嫡子の真田信幸(信之)、次男の真田信繁(幸村)。昌幸が九度山に幽閉されたおりには同行せず、信幸(信之)が引き取る。すぐに出家して寒松院と改める。出自については諸説ある。「真田太平記」では、菊亭(今出川)晴季の娘。