武田信繁は武田晴信(信玄)の弟であり、武田家の副将格、御一門衆筆頭、武田二十四将の一人である。官職は左馬助(自称?)。和歌などの教養にも優れ、文武ともに優れた人物だったようである。1561年(永禄4年)9月10日、第4次川中島の戦いで討死する。享年37。長尾景虎(上杉謙信)もその死を惜しんだという。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
真田信繁(幸村)の名前の由来になった武田信繁について調べてみました。大河ドラマ「真田丸」の主役である真田信繁(幸村)の名前のルーツを知りたかったからです。記事投稿したいと思います。
それではいってみよう!
武田信繁とは?
武田信繁は1525年(大永5年)、武田信虎の子として生まれる。幼名は次郎。幼少期から父・信虎は信繁を寵愛し、嫡男の晴信を廃嫡して、信繁に家督を譲ろうとしたなんて逸話も残っています。
それから武田家は甲斐源氏です。遡ると八幡太郎源義家とも血縁になります。これは余談です(笑)。
『高白斎記』に拠れば1551年(天文20年)2月1日に信繁は武田氏庶流の吉田氏を襲名したといわてます。
村上義清、上杉謙信、諏訪氏などの戦いでは、武田晴信(信玄)が出兵しない時は、大将をつとめています。
信繁は基本的には甲府に在住して武田家の外交に参与し、合戦の際には信玄名代として軍事指揮権を発動し、先衆を統制する立場で出陣する立場であったと考えられています。
武田氏は征服した信濃諸族に対し一族を養子にし懐柔させる方策を取っているが、信繁の子も信濃佐久郡の望月氏の養子となっている。そういえば信玄の子勝頼も、最初諏訪氏を継いでいます。
1561年(永禄4年)9月10日、第4次川中島の戦いで討死する。享年37。
第4次川中島の戦いでは、ほか山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死してます。
武田信繁の人物評
信玄は信繁の死体を抱くと号泣したと伝えられ、上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。
武田家臣団からもその死は惜しまれ、もし信繁が生きていたら、信玄の嫡子・義信が謀反を起こすことはなかったといわれるほどです。
山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。真田昌幸は次男に「信繁」と名づけている。
武田信繁ってかなりの人物だったんですねー。もう少し長生きしてたら武田氏はどうなってたんだろう?想像しただけでもゾクゾクしますねー(笑)。それが歴史の面白いところです。
武田信繁の菩提寺
武田信繁の菩提寺は典厩寺です。なんとその典厩寺に真田信繁(幸村)の供養塔である五輪塔が、武田信繁の五輪塔と並んであるそうです。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
関連記事
関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
まとめ
知れば知るほど「武田信繁」の人物が伺えます。真田昌幸が次男に「信繁」と名付けるのもわかるような。それが真田幸村ですが・・・。
武田信繁って「信長の野望」でもパラメータ高いもんなー(笑)。
それから武田信繁の官職「左馬助」は自称なのかわかりません。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。