水戸城。水戸徳川家の居城、現存の建造物・薬医門は水戸第一高等学校に

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水戸城の別名は馬場城・水府城。築城年は建久年間(1190年~1198年)、築城主は馬場資幹(ばばすけもと)。主な城主-大掾氏(馬場氏)・江戸氏・佐竹氏・徳川氏。徳川御三家の水戸徳川家の居城。1871年(明治4年)、廃藩置県により水戸城は廃城。天守相当の御三階櫓は、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失。現在まで再建なし。

管理人にとっての水戸徳川家は、頼房・光圀・斉昭・七郎麻呂(のちの一橋慶喜・徳川慶喜)しかなかった。その中でも、徳川光圀・徳川斉昭かなー、やっぱり・・・

今回は水戸城についての記事投稿です。

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JR水戸駅北口・水戸黄門像

最初にアイキャッチ画像についての説明です。

アイキャッチ画像はJR水戸駅北口にある水戸黄門像。左から助さん(佐々木助三郎)・黄門様(御老公・水戸光圀・徳川光圀)・格さん(渥美格之進)。その姿は東方を向き、視線は水戸城跡を見つめている。

並び順に関しては、画像でいう右が上座である左。役職・年齢も助さん(佐々木助三郎)より格さん(渥美格之進)の方が上だからという説を、どっかで読んだような気がします・・・

ほか水戸市内には数体の水戸黄門像があるようです。

まさにTBSドラマ「水戸黄門」そのもの。やはり御老公・水戸黄門の知名度は抜群のようである。恐るべし黄門様・・・

水戸城

水戸城は、建久4年(1193年)、源頼朝から地頭・馬場資幹(ばばすけもと)がこの地を賜り、大掾(だいじょう)に任ぜられたのに始まる。

※掾(じょう)とは、日本の律令制下の四等官制において、国司の第三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。最も高い位置づけの大国には大掾・少掾が設置された。

別名は馬場城・水府城。城郭構造は連郭式平山城。築城主は馬場資幹(ばばすけもと)で、築城年は建久年間(1190年~1198年)といわれる。

  • 主な改修者-佐竹義宣・徳川頼房
  • 主な城主-大掾氏(馬場氏)・江戸氏・佐竹氏・徳川氏
  • 廃城年-1871年(明治4年)
  • 遺構-薬医門1棟、藩校(弘道館)、土塁、空堀

茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。

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画像は、空堀(空濠・空壕・からぼり)。

水戸城の概要

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水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城。北部の那珂川と南部の千波湖を天然の堀としていた。戦国東国の典型的な城。

水戸城は、常陸国主・佐竹時代の後は徳川御三家(初代藩主・徳川頼房)の居城となる。

※徳川頼房は、徳川家康の第十一子。

三の丸には藩校・弘道館などがあった。本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃。

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画像は、千波湖にある徳川光圀公像。写真には写っていないが、光圀公像の周りには、ものすごい人がいた。スマフォ片手にすごい人混みであった。絶対に「ポケモンGO」が目的の人たちばかりだろう・・・

管理人が訪れる城では、よく見かける光景だ。

御三階櫓

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江戸時代の櫓は、二の丸(現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園)にまたがる形で存在した。

江戸近隣の城は幕府に憚り天守建造はしなかった。徳川御三家の水戸も例外ではない。

が、「天守」という呼称ではなかったが、外見は三層、中は五階建ての御三階櫓と称す巨大な実質天守があった。

水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であった。

御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。

空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち再現されていないのは、現在水戸城だけである。

現在の城跡

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城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存。現在の城跡は文教地区となっている。

  • 茨城県立水戸第一高等学校
  • 茨城県立水戸第三高等学校
  • 水戸市立水戸第二中学校
  • 水戸市立三の丸小学校
  • 茨城大附属小・幼稚園

が建っている。

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水戸第二中学校の隣というか、その場所は「彰考館」跡である。

※彰考館とは水戸藩が「大日本史」を編纂するために置いた修史局(史局)。

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三の丸小学校の校門・塀・校舎の多くはレトロ調。

本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり橋が掛けられていた。、明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路(県道232号市毛水戸線)として、本丸と二の丸の間の堀は鉄道(JR水郡線)として転用された。

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画像は、県道232号市毛水戸線。

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画像は、JR水郡線。

水戸城の歴史

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馬場・佐竹時代

築城は平安時代末期まで遡る。築城主は、常陸国大掾・馬場資幹(ばばすけもと)。

※馬場資幹は、平国香の子孫。平国香(たいらのくにか)は、平安時代中期の武将。平高望の長男。常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。

以後、水戸城は大掾氏(馬場氏)の居城となる。よって佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。

1416年(応永23年)、「上杉禅秀の乱」で、当主・大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより江戸氏が新城主となる。その支配は以後7代(約170年間)続いた。江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立。

  • 1510年(永正7年)、江戸通雅・通泰の父子は主家である佐竹氏と同格の地位を得た。
  • 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担。佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣。

これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。

1594年(文禄3年)、佐竹義重・義宣は、江戸氏が籠城する馬場城を攻め江戸重通を敗走させた。

義宣は居城・太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。

  • 1602年(慶長7年)、徳川家康によって佐竹氏は水戸から追放。「関ヶ原の戦い」での曖昧な態度が原因。佐竹家は出羽国秋田に転居。
  • 1602年(慶長7年)、家康は、奥州を睨む好地として五男・武田信吉を15万石で水戸に入城させる。
  • 1603年(慶長8年)、家康の十男・徳川頼宣が20万石で入城。武田信吉が嗣子無く没したため。

徳川時代

  • 1609年(慶長14年)、家康の十一男・徳川頼房が下妻城より25万石で入城。徳川頼宣は駿府藩50万石を与えられた。
  • 1841年(天保12年)、9代藩主・徳川斉昭が弘道館を開く。
  • 1842年(天保13年)、9代藩主・徳川斉昭が偕楽園(水戸城の西部・日本三名園の一つ)を開く。

幕末には水戸藩の藩論が分かれる。改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立。

弘道館。正庁・至善堂に徳川慶喜謹慎。「大日本史」の影響で水戸学の舞台
弘道館は幕末に水戸藩主・徳川斉昭によって建てられた藩校。所在地は水戸城の三の丸内。正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定。徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の影響を受けた水戸学の舞台。明治維新の際には、弘道館戦争(弘道館の戦い)が勃発している。

  • 1864年(元治元年)、天狗党が筑波山で挙兵。天狗党の乱。明治維新まで続く。
  • 1868年(明治元年)、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃。この際に城内の多くの建物が焼失。

近現代

  • 1871年(明治4年)、廃藩置県により水戸城は廃城。
  • 1872年(明治5年)7月19日、東京鎮台の歩兵2個小隊が駐屯。東京鎮台の第4分営。
  • 1945年(昭和20年)8月2日、水戸空襲により「三階櫓」を焼失。
  • 1952年(昭和27年)、弘道館が国の特別史跡に指定。

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  • 1964年(昭和39年)、弘道館正庁・至善堂・正門および塀が国の重要文化財に指定。(塀は附(つけたり)指定)。
  • 1967年(昭和42年)、土塁・空堀が茨城県の史跡に指定。
  • 1983年(昭和58年)、薬医門が茨城県の指定建造物。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(14番)に選定。

※弘道館正庁・至善堂は徳川慶喜が、上野寛永寺大慈院の次に謹慎を行った場所。1868年(慶応4年)4月から1868年(慶応4年)7月までの期間。慶喜は、駿府にて引き続き謹慎を行った。

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町
1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

薬医門

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桁行3間、梁間1間、切妻造、茅葺風銅板葺、箱棟付の単層薬医門。

安土桃山時代末期、佐竹氏が水戸城にいた時期に建てられたものと考えられている。

この門の旧位置については、形式と規模そして風格からみて、本丸橋詰門とするのが適当と思われます。

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  • 1887年(明治20年)頃・1944年(昭和19年)の2回、水戸市内で所在を変えて移築されました。
  • 1981年(昭和56年)、水戸城本丸跡地である県立水戸第一高等学校敷地内(旧位置近く)に移築復元。

薬医門は、見学可能になっています。管理人は休日でしたが、平日でも迷惑をかけなければ見学できると思います。あくまでも学校敷地内なので、節度をお守りください。

水戸徳川家

水戸徳川家の居城・水戸城は、尾張藩・名古屋城、紀州藩・和歌山城と違って戦国遺風が濃い連郭城であった。

水戸徳川家は参勤交代を行わない唯一の江戸定府大名。そのため水戸城は藩主の居城としての役割を担っていなかった。

徳川御三家、徳川御三卿からの征夷大将軍就任
一般的には徳川御三家が尾張、紀州、水戸の三家、徳川御三卿は田安家、一橋家、清水家の三家である。御三家は親藩のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。御三家、御三卿を調べながら、御三家、御三卿から征夷大将軍に就任した人物の記事投稿をしてみたいと思います。

復元整備事業

平成に入ってから水戸市によって大手門などの整備計画が策定され復元などが進められている。

  • 2015年、大手門復元に向け寄付を募る「一枚瓦城主」が始まる。
  • 2015年4月、三の丸「杉山門」が復元され周辺も整備された。

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画像は、復元された「杉山門」。

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画像は、杉山門周辺の道路。周辺も整備とあるので、この道路も復元整備事業の一環だろう。

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画像は、「柵町坂下門」。復元整備事業の一環かどうかは不明・・・

水戸城址近辺の銅像

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画像は、「威公」こと水戸藩初代藩主・徳川頼房。徳川頼房は、徳川家康の十一男。

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画像は、「烈公」こと水戸藩第九代藩主・徳川斉昭。徳川斉昭は、最後の征夷大将軍・徳川慶喜(幼名・七郎麻呂)の実父。しびれますな烈公には・・・

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画像は、本間玄調。水戸江戸時代末期の医師。名は資章、のち救と改名。号は棗軒(そうけん)。本間玄調像の場所は、水戸市立三の丸小学校前。

水戸城址の所在地および交通アクセス

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住所:〒310-0011 茨城県水戸市三の丸2丁目6。

JR常磐線・水戸駅から徒歩約8分。

管理人は車で行ったのですが、弘道館の駐車場に駐車しました。

水戸城城郭の見学

旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。

  • 旧本丸-茨城県立水戸第一高等学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
  • 旧二の丸-道路以外の学校敷地内には常時の立ち入りができない。
  • 旧三の丸-水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料。その他の敷地は無料で立ち入りができる。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

水戸城 – Wikipedia

まとめ

一番良かったのは、有名な「薬医門」かな・・・

管理人は、水戸城址のほか、「弘道館」「義公誕生の地」も見学しました。

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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