米子城。別名は久米城・湊山金城、江戸時代初期には米子騒動の舞台に

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米子城は、鳥取県米子市久米町にあった城。城郭構造は梯郭式平山城。別名は久米城・湊山金城。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁。のち鳥取藩の支城となった。城跡は国の史跡に指定されている。1603年(慶長8年)11月には米子城を舞台に「米子騒動」(横田騒動・中村騒動・米子城騒動とも言われる)が起きている。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

米子騒動(横田騒動・中村騒動・米子城騒動)の舞台にもなった「米子城」について記事投稿してみたいと思います。

是非、石垣が美しいと言われる米子城の画像を堪能してください!

それではいってみよう!

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米子城を訪ねて

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所用があり鳥取県米子市に行ってきた。「尾高城」の記事でも書いたが生まれも育ちも関東人である管理人だが、鳥取県米子市には少し関係がある。

なので近年は一年に一度は訪れる。

管理人が行く少し前にはライトアップのイベントもやっていたそうです。美しい石垣をライトで照らすのは美しいことでしょう。

米子城に行くのは二度目。

はるか昔に行ったので覚えていなかった・・・。

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まずビックリしたのは天守跡まで行くのに、異様に疲れたこと(笑)。

米子城は平山城で湊山は標高90m。最初はなだらかだった坂も途中からは急坂になった。

昔登った記憶を辿ってみても米子城に行って疲れた記憶はない。数多くの城を攻めているわけではないが、行って疲れた記憶があるのは「月山富田城」だけ。

疲れた原因は、かなりの年齢を重ねたとしか思えない。要するに体力の低下・・・。これはかなりヤバイ・・・。

平日の午前中のせいか、天守跡では幼稚園の子供達が元気に遊んでいた。

ゼエーゼエーしてた管理人は、子どもたちに笑われてしまった。

あの子達も、ここまで登ってきたんだよな~。

自分が情けなくなった管理人が、そこにはいた・・・(笑)。

米子城の概要

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米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった城。城郭構造は梯郭式平山城。別名は久米城・湊山金城。

江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁。のち鳥取藩の支城となった。城跡は国の史跡に指定されている。

米子城には、戦国時代の飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭がある。

天守構造は、

  • 1596年-不明4重
  • 1601年-独立式望楼型4重5階

ともに非現存。

高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいた。

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遺構は石垣のみ。

戦国期には飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構え、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていた。門が3か所あり、現在は削平されているが、南が1段高く、建物の痕跡があったという。

江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用。

四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に廻した堀には海水をひき入れていた。

幕末に櫓台と小天守の修築工事をしているため、外観および内部各階の詳細な絵図面が残っている。

米子市にある山陰歴史館・米子市立義方小学校・鹿島家分家に四重櫓の鯱一つづつ保存されている。

米子城の遺構

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米子城の遺構は石垣のみ。画像は天守跡の石垣。

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画像は鉄御門(くろがねごもん)跡付近の石垣。

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画像は米子市営湊山球場ライト側の石垣。

米子市営湊山球場は三の丸あたりなので、これが二の丸の石垣なのか・・・?

現在の米子城

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画像は米子城の「枡形(ますがた)」。

この日は平日午前で、除草作業が行われていました。

時期的に、夏も終わった頃だった。そういえば「尾高城」でも除草作業が行われていました。

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画像は本丸手前の遠見櫓(とおみやぐら)跡。

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頂上の天守跡より大山を撮影。

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頂上の天守跡より日本海を撮影。と~~くに見えるのが日本海。この日、天守跡では撮影が行われていて、いい撮影場所が確保できませんでした(笑)。

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画像は二の丸跡のテニスコート。管理人は枡形(ますがた)からではなく、鳥取医大附属病院よりの登り口を利用しました。

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画像は米子市営湊山球場。米子城でいうと三の丸に位置します。

柵から手を伸ばし撮影。中には入れませんでした。

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画像は鳥取医大附属病院。同じく三の丸に位置します。

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画像は錦海(きんかい)ボートコース。米子城のすぐ近く。

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画像は寿製菓株式会社の米子道・米子ICそばにある「お菓子の寿城」。

電線が多いアングルからの写真ですみません・・・。

米子城の所在地および交通アクセス

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米子城の所在地。米子城のマップ等を掲載します。

所在地、交通アクセス等は、

  • 住所:鳥取県米子市久米町
  • TEL:0859-23-5437

駐車場は数台。管理人は鳥取医大附属病院裏手の登り口近くを利用しました。

米子城の歴史

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応仁の乱時、西軍・山名氏が支配する伯耆と、東軍・京極氏が支配する出雲の国境は緊張。

「出雲私伝」によれば、1470年(文明2年)、尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、この頃の築城と考えられる。

中世

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  • 1524年(大永4年)、大永の「五月崩れ」によって落城。尼子氏の支配となる。
  • 1562年(永禄5年)頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に戻る。
  • 1569年(永禄12年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛らは、米子城主・山名之玄と結ぶ。

毛利方・吉川元春に攻められ落城。城主・山名之玄は自害。吉川元春は配下の福頼元秀を城主とした。

  • 1577年(天正5年)、古曳吉種を城主にしたと推定されている。
  • 1591年(天正19年)、東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となる。古曳吉種に命じ、湊山に築城を始める。

古曳吉種は文禄の役で戦死。吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封。

※吉川広家は吉川元春の三男。関ヶ原の戦いでは、早くから徳川氏に内応しており、毛利秀元の「宰相殿の空弁当」に通ずる。

宰相殿の空弁当。毛利家は関ヶ原の戦いで、戦わず弁当とは?
関ヶ原の戦いでの西軍敗北の要因を考えた時、「小早川秀秋の裏切り」「宰相殿の空弁当」は大きな原因といえる。そのどちらにも毛利家一門が関わっているのが面白いといえば面白い。成り行き上、西軍に参加した長宗我部盛親は可哀想である・・・。

江戸時代

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  • 1600年(慶長5年)、豊臣家の三中老・中村一氏は駿府城下内膳屋敷で徳川家康と会談。東軍・徳川方に加わった。
  • 1600年(慶長5年)、この論功により、一氏の嫡子・中村一忠は伯耆一国17万5000石を領す。米子城に入り、初代米子藩主となる。
  • 1603年(慶長8年)、米子騒動。城主側近の安井清一郎、天野宗杷等の陰謀に惑わされた城主中村一忠は横田村詮(よこたむらあき)を謀殺。詳細はのちほど。
  • 1609年(慶長14年)、中村一忠が急死。中村氏は家系断絶のため改易。
  • 1610年(慶長15年)、加藤貞泰が伯耆の内で2郡6万石を領して藩主となる。

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。

一忠は執政家老・横田村詮とともに、米子城を完成。新たに米子城下町を建設し、現在の商都米子の礎を築いた。

中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治された。

  • 1617年(元和3年)、加藤貞泰が大洲藩に移封。米子藩は廃藩。
  • 1632年(寛永9年)、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老・荒尾氏が城代として駐在。

明治以降

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  • 1872年(明治3年)、米子城山が米子駐在の大四大隊の士族らに無償で払い下げ。
  • 1875年(明治8年)、士族らは土地と建物の買い取りを米子町に要請。しかし不成立、切り売りされた。
  • 1879年(明治12年・一説には明治9年・明治13年)、当時の金30円で古物商・山本新助に売られ、石垣を残して取り壊された。のち城跡一帯は坂口氏の手に渡る。
  • 1933年(昭和8年)、坂口平兵衛(2代)から米子市に寄付。現在は湊山公園として整備。
  • 1966年(昭和41年)、飯山(いいのやま)に英霊塔が建てられる。

  • 1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)、石垣の修理。
  • 1988年(昭和63年)~1989年(平成元年)、発掘調査。
  • 1991年(平成3年)~1992年(平成4年)、発掘調査。船入り石垣の遺構を発見。
  • 2006年(平成18年)、国の史跡に指定。

米子騒動

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前述した米子騒動について。横田騒動・中村騒動・米子城騒動とも言われる。

中村一忠は、入部当時11歳と幼少。藩政を担当したのは叔父・中村一栄と、家康から一忠の後見役として執政家老の命をうけ派遣された横田村詮であった。

村詮は、幼少の一忠のもとで手腕を発揮し、吉川広家によって着手されていた米子城築城を完成。城下町の整備・建設を行い、米子の発展の礎を築いた。

藩政確立に尽力した村詮であったが、一忠の側近である安井清一郎・天野宗杷らと対立するようになった。

1603年(慶長8年)11月14日、安井・天野らに唆された一忠は村詮を殺害。村詮の子・主馬助や、村詮の客分・柳生宗章らは憤激して飯山に立て篭もった。

一忠は隣国出雲の堀尾吉晴の助勢を得て鎮圧。

事件の報告をうけた徳川家康は、自らが派遣した横田村詮の殺害に激怒。首謀者の安井・天野の行いを幕府への反逆とみなし、吟味なく即刻切腹に処した。

城主・一忠は品川宿止め(謹慎)に収め、お構いなし。

これが「米子騒動」である。

尾高城

尾高城。捕縛された山中鹿之助幸盛が下痢と偽り脱出、米子市尾高,画像05

中村一忠は米子城が完成するまで、一時尾高城にいた。

尾高城に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

尾高城。捕縛された山中鹿介幸盛が下痢と偽り脱出、米子市尾高
尾高城。鳥取県米子市尾高にある中世の城(平山城跡)。城郭構造は連郭式平山城。泉山城(いずみやまじょう)とも呼ばれる。戦国時代は西伯耆の要衝であり、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となる。捕縛された山中鹿之助幸盛が下痢と偽り脱出した逸話も残る。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

米子城 – Wikipedia

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羽柴(豊臣)家に関する記事

徳川家に関する記事

まとめ

米子城石垣の画像、楽しんでくれたでしょうか?

管理人はすっかり米子城が好きになりました。やはり石垣が美しい!

それから管理人が鳥取県米子市に行った一週間後に、鳥取県を中心とした地震が発生しました。

地震の規模が凄かったので心配してます。

風評被害・予約のキャンセルなどがあるようですが、いいところなので機会があれば行ってみてください・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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