徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町

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この記事の所要時間: 450(文字数:2,906文字)

1868年(慶応4年)7月に徳川慶喜は静岡の宝台院に入り謹慎は継続。よって徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。戊辰戦争の終結後に謹慎は解除。1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。現在は料亭・浮月楼(静岡市葵区紺屋町)。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

静岡市葵区紺屋町の「徳川慶喜公屋敷跡」について記事投稿してみたいと思います。

それではいってみよう!

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徳川慶喜公屋敷跡を訪ねて

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町,画像01

駿府城に行ったので、「徳川慶喜公屋敷跡」にも訪れた。

「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」の記事でも書いたが、駿府城でもらった地図にあったので行ってみた。

よって滞在時間は短く、写真もあまり撮影してないので御勘弁のほどを・・・。

最初に断っておくが、徳川慶喜公の謹慎の地ではない。

静岡での謹慎地は、あくまでも「宝台院」である。

徳川慶喜の謹慎・住居の流れ

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徳川慶喜の謹慎と住居の流れを記述。

  • 1868年(慶応4年)2月、徳川慶喜が上野の寛永寺大慈院において謹慎。勝海舟に事態収拾を一任、全権を委ねる。
  • 1868年(慶応4年)4月11日午前3時、寛永寺大慈院を出て水戸へ向かう。弘道館の至善堂にて引き続き謹慎。
  • 1868年(慶応4年)7月19日、水戸を出発。銚子から旧幕府軍艦蟠竜艦で清水港をめざす。
  • 1868年(慶応4年)7月23日、清水港に上陸。東海道を通って宝台院に入る。謹慎は続く。

これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。

旧幕臣に会うことを避けていた慶喜公ですが、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、新門辰五郎らは常にお見舞いに参上していたようです。

徳川将軍家の官位履歴一覧と徳川家康の征夷大将軍就任
徳川家康が征夷大将軍就任するまでに朝廷内ではスキャンダルが勃発した。結果、徳川家康は「源氏長者」を手に入れる。征夷大将軍が何かとクローズアップされるが管理人は「源氏長者」に注目している。家康以降の徳川将軍家の官位履歴一覧と「武家関白制」にも触れてみる。

  • 1869年(明治2年)9月28日、戊辰戦争の終結。徳川慶喜の謹慎解除。
  • 1869年(明治2年)10月、もとは駿府代官屋敷であった場所に居住。約20年間、この地に居住。

その場所が、現在の料亭「浮月楼(ふげつろう)」である。

慶喜は政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。

徳川慶喜公屋敷跡。元駿府代官屋敷、現在は浮月楼。静岡市葵区紺屋町,画像03

  • 1897年(明治30年)11月、東京の巣鴨に転居。
  • 1901年(明治34年)12月、小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷に転居。

ここが終焉の地となり、現在は敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。

浮月楼

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静岡市葵区紺屋町にある浮月楼(ふげつろう)は、四季折々の懐石料理を味わうことができる料亭。

東海の名園といわれる美しい庭、そして徳川慶喜公屋敷跡として有名です。浮月楼の名は、池に浮かぶ月の美しさに由来します。

浮月楼の浮殿(うきどの)では、当時の面影を残した見事な庭園を眺めながら、四季折々の懐石料理を楽しむことができます。

日本情緒あふれる庭園は、結婚式場、セレモニースペースとしても利用されています。

徳川慶喜公屋敷跡の所在地および交通アクセス

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徳川慶喜公屋敷跡の所在地。徳川慶喜公屋敷跡のマップ等を掲載します。

所在地、交通アクセス等は、

  • 住所:静岡県静岡市葵区紺屋町11-1
  • TEL:054-252-0131

駿府城

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城,画像19

「徳川慶喜公屋敷跡」からは駿府城が近い。

管理人の当初の目的は駿府城であった。もらった地図に、偶然あった「徳川慶喜公屋敷跡」を訪れた次第であります。

駿府城に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

駿府城(府中城・静岡城)。今川氏時代は今川館、大御所・家康の城
駿府城(すんぷじょう)。別名は府中城・静岡城など。今川氏統治時代には「今川館」と呼ばれた。城郭構造は輪郭式平城。日本100名城(No41)にも選ばれている。徳川家康が晩年の城として駿府城を選んだのは、西の豊臣方への牽制のためだろう。静岡の地は徳川家の本山である関東の入り口であり、抑えの地として機能した。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区,画像04

徳川慶喜公屋敷跡から「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」までは近い。

「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地。もう一つの江戸無血開城、静岡市葵区
1868年(慶応4年)3月9日、旧幕府精鋭隊頭・山岡鉄舟(鉄太郎)は、西郷隆盛のもとを訪れ会見。山岡は勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。そして5日後の1868年(慶応4年)3月14日、江戸の三田・薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟の会談。

久能山東照宮

久能山東照宮。もとは久能寺、武田信玄により久能城。家康公の神廟,画像13

せっかくなので「久能山東照宮」にも行ってきました。

「久能山東照宮」に関しては記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

久能山東照宮。もとは久能寺、武田信玄により久能城。家康公の神廟
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年(元和2年)に死去した後、遺命に埋葬された場所が、現在の久能山東照宮。家康公の神廟は遺命より西を向いているのは有名な話である。

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まとめ

今回、時間がなかったので宝台院には行けていない。こうなってくると行きたくなってしまう(笑)。

慶喜公が趣味に生きた話は有名ですよね。

何気なく徳川慶喜公屋敷跡を訪ねてみたが、慶喜公がここで暮らしていたことを思うと、なんだか感慨深いものがある・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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