「 徳川家 」一覧

戦国時代の徳川家関連の記事投稿をします。おもに徳川家康、徳川家家臣団の記事投稿になります。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け

太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

江(崇源院)。浅井三姉妹の末っ子、徳川秀忠の正室。位階は従一位

江(崇源院)。浅井三姉妹の末っ子、徳川秀忠の正室。位階は従一位

浅井三姉妹の末っ子で、徳川秀忠の正室・江(崇源院)。淀殿の妹ということもあり、きつい性格な人物であると思っていた。やはり小説・ドラマの影響からか間違って伝わっている部分が多い。調べてみるもんです。それと徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけということにはびっくりした。

細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖

細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖

「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る

前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る

前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。

徳川家康暗殺疑惑事件。家康と正信の謀略と言われ、前田家を封じる

徳川家康暗殺疑惑事件。家康と正信の謀略と言われ、前田家を封じる

豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下への野望を隠さなかった。1599年(慶長4年)には石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件が起きている。今回は徳川家康暗殺疑惑事件を取り上げる。2つの事件に共通しているのは、徳川家康の存在が大きくなったことだ。徳川家康暗殺疑惑事件は家康と本多正信の謀略とも言われている。

小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る

小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る

徳川家康は会津征伐のため下野小山に到着。鳥居元忠の使者から石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した知らせを受ける。1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。西軍・東軍の選別がなされ、東軍が一致団結した大きなイベントであることは間違いない。その流れで関ヶ原の戦いに至る。

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源

徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。