本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚

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本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

本多正信というと「謀将」で少し暗いイメージもあるんですが・・・。少し詳しく調べてみました。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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本多正信

本多正信(ほんだまさのぶ)。1538年(天文7年)~1616年(元和2年)6月7日。父・本多俊正の次男。三河生まれ。

幼名は弥八郎。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。

正室は毒林尼(戒名・釋屋妙受大姉)。兄弟は正重。子は正純、政重、忠純。

墓所は龍谷山本願寺。戒名は善徳納誨院。

家康の鷹匠~三河一向一揆で流浪

三河一向一揆で流浪するまでを簡単にまとめた。

本多正信は家康が抱える「鷹匠」から家臣になっている。

  • 1538年(天文7年)、本多俊正の次男として三河で生まれる。
  • 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの丸根砦攻め。膝を負傷し以来足を引きずるようになった。
  • 1563年(永禄6年)、三河一向一揆。一揆方の武将として弟と共に家康に敵対。

三河一向一揆後、徳川氏を出奔。大和国・松永久秀に仕える。その後諸国を流浪。一説には加賀国で石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたといわれている。

旧知の徳川家臣・大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願。忠世のとりなしによって徳川氏に帰参。

帰参の時期は、早ければ姉川の戦いの頃、遅くとも本能寺の変の少し前の頃とされている。

本能寺の変~関ヶ原の戦い

本能寺の変から関ヶ原の戦いを簡単にまとめた。

  • 1582年(天正10年)、本能寺の変により「伊賀越え」を決行。(しかし34名の伊賀越えのメンバーに本多正信の名はない)
  • 1582年(天正10年)、天正壬午の乱。奉行として武田家臣団の精鋭を取り込み、甲斐・信濃の実際の統治を担当。
  • 1586年(天正14年)、従五位下・佐渡守に叙位・任官。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐後、徳川家康が関東移封。相模国・玉縄1万石の所領を与えられて大名となる。
  • 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉死去。
  • 1599年(慶長4年)、前田利長の謀反嫌疑の謀略。
  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。徳川秀忠の軍勢に従い、信濃・上田城の真田昌幸を攻めている。(第二次上田合戦)

徳川秀忠は関ヶ原の戦いに遅参している。正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、受けいれられなかったといわれている。

関ヶ原の戦い以降の徳川家の軍議で、家康の後継者を巡って重臣たちが候補者を表明している。

  • 井伊直政:娘婿・松平忠吉
  • 大久保忠隣:徳川秀忠
  • 本多正信、嫡男・正純:結城秀康

を支持したと伝わる。

神君伊賀越え。徳川家康、生涯最大の危機
1582年(天正10年)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反により、本能寺にて自害。「本能寺の変」である。その時、徳川家康は僅かな供廻とともに堺見物をしていた。本能寺の変の報を聞いた家康は、取り乱す。最初、京の知恩院に駆け込んで、自害しようとする。が、家臣たちに説得され、伊賀を超えて三河に帰ることを決意するのであった。。
本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。

初期幕政で権勢を誇る~晩年

1601年(慶長6年)からは、家康が征夷大将軍職に就任するために朝廷との交渉に奔走。本願寺での前法主・教如と法主・准如の兄弟対立を利用して、本願寺の分裂を促すことを家康に献策している。

  • 1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開設。正信は家康側近として幕政を主導。
  • 1605年(慶長10年)、家康が隠居して大御所となる。秀忠が第2代将軍になると、正信は秀忠の顧問的立場として幕政を主導。
  • 1607年(慶長12年)、秀忠付の年寄(老中)。
  • 1610年(慶長15年)、特別待遇により大老のような地位にまで昇進。
  • 1612年(慶長17年)、岡本大八事件。子・正純の家臣・岡本大八による朱印状偽造が発覚。
  • 1613年(慶長18年)、大久保長安事件。
  • 1614年(慶長19年)、大久保忠隣失脚。
  • 1614年(慶長19年)からの大坂の陣に参戦。家康に多くの献策。
  • 1616年(元和2年)4月、徳川家康が死去。家督を嫡男・正純に譲り隠居。
  • 1616年(元和2年)6月7日、本多正信が死去。享年79。

大久保長安事件、大久保忠隣失脚に正信が関わったかは同時代の史料では確認できていない。

徳川家康は本多正信を参謀として重用し「友」と呼んだといわれている。ほんとうに家康の後を追うように亡くなってます。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

本多正信評

本多正信の徳川家臣たちからの評判は相当に悪かった。同族の本多重次(鬼作左)も正信のことを快く思っていない。

本多忠勝は「佐渡(正信は佐渡守)の腰抜け」、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」といっている。

榊原康政は「腸の腐った奴」と散々な言われようだった。

松永久秀は「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評している。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

本多正信の訓戒

本多正信の領地は相模玉縄に2万2000石(一説に1万石)である。意外に少ないのは理由がある。周りから嫉妬されることを予想している。

嫡男・正純に以下のことを言っている。

「我の死後に、汝は必ず増地を賜るだろう。3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降り懸かるであろう」

と説いていた。

秀忠には以下のことを言っている。

「もしこれまで正信のご奉公をお忘れでなく、長く子孫が続くことを思し召しされるのなら、嫡男・上野介(正純)の所領は今のままで、これより多くなさらないように」

と嘆願したという。

宇都宮城釣天井事件

本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚,画像01

しかし正純は父・正信同様に権勢を誇ったが、その遺志に叛いて宇都宮15万5000石の大封を得た。コレが宇都宮城釣天井事件に繋がる。

本多正信の死

本多正純の父・本多正信は将軍・秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所・徳川家康の側近だった。

  • 1616年(元和2年)、本多正信に死により嫡男・正純は2万石を加増されて下野・小山藩5万3000石の藩主となる。秀忠付の年寄(後の老中)になる。
  • 1619年(元和5年)10月、福島正則の改易。亡き家康の遺命をたてに奥平忠昌を下野・宇都宮藩10万石から下総・古河藩11万石へ移封。自分は小山5万3000石から宇都宮15万5000石への加増。

これが決定的だった。正純は先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、秀忠や秀忠側近から怨まれていた。

そこへ宇都宮15万5000石である。一層の反感を周囲から買った。

徳川秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝

1622年(元和8年)、徳川秀忠は家康の七回忌に日光東照宮を参拝することとなった。

本多正純は秀忠が宇都宮城に1泊する予定であったため、城の普請や御成り御殿の造営を行わせている。

  • 1622年(元和8年)4月16日、秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があった。
  • 1622年(元和8年)4月19日、秀忠は御台所病気を理由に宇都宮城を通過して壬生城に宿泊。
  • 1622年(元和8年)4月21日、秀忠が江戸城に帰還。
  • 1622年(元和8年)8月、出羽・山形藩の最上義俊が改易。正純は上使として山形城受取りのため同所に赴く。

徳川秀忠は、

  • 鉄砲の秘密製造
  • 宇都宮城の本丸石垣の無断修理
  • 宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策

などの11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけた。

伊丹康勝・高木正次が使いとして正純の下に赴いた。正純は11か条について明快に回答。

が、伊丹康勝が追加で行なった3か条については回答することができなかったた。よって所領は召し上げ、出羽・由利郡に5万5000石を与えると命じた。

正純は出羽・由利郡5万5000石を固辞。秀忠は激怒し、本多家は改易となり正純の身柄は久保田藩主・佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪が決定した。

正純には1000石の捨て扶持を与えられが、1637年(寛永13年)3月、正純は73歳で生涯を終えた。

事件の波紋

1622年(元和8年)4月19日に井上正就に行なわせた調査で、徳川秀忠は本多正純謀反の証拠が何も無いことを確認している。

考えられる要因としては、

  • 正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略。
  • 加納御前の恨み。
  • 秀忠が父・家康の代から幕閣の中で影響力が大きく、自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。

などの説があげられる。

加納御前は奥平忠昌の祖母だ。忠昌は正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総古河への左遷を命じられた。くわえて加納御前の娘は、改易させられた大久保忠隣の嫡子・大久保忠常の正室だ。

大久保忠隣失脚、奥平忠昌転封が繋がる・・・。

秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応をしている。通常このような場合は、諸大名を江戸城に集めて説明する。

本多正純失脚が秀忠と幕府にとって、いかに大きかったかを計り知ることができる。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

宇都宮城釣天井事件 – Wikipedia

真田丸では近藤正臣が演じる

大河ドラマ「真田丸」では本多正信を俳優・近藤正臣が演じている。

本多正信というと謀将のイメージがあるが真田丸の本多正信は、お茶目な面もあり、可愛らしいところもあります(笑)。

これからの近藤正臣演じる本多正信に期待です!

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

本多正信 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

本多正信というと少し暗いイメージがありますが、正信がいなかったら徳川家康の天下への道は開けなかったと思います!

関ヶ原の戦い後、徳川家康の後継者に結城秀康を推したことは知りませんでした。勉強になりました。

そして最後には本多正信が案じたとおり「宇都宮城釣天井事件」が起こってしまいます・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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