細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖

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「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

茶道の流派・三斎流の開祖でもある細川忠興についての記事投稿です。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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細川忠興

細川忠興(ほそかわただおき)/長岡忠興長岡忠興(ながおかただおき)。1563年(永禄6年)11月13日~1646年(正保2年)12月2日。

父は細川藤孝(幽斎)。母は沼田麝香(沼田光兼の娘、光寿院)。養父は細川輝経。丹後国・宮津城主から豊前・小倉藩初代藩主。肥後・細川家初代。

幼名は熊千代。改名は長岡忠興、細川忠興、三斎宗立(号)。通称は与一郎。別名は丹後宰相、丹後侍従、丹後少将。

兄弟は

  • 興元
  • 幸隆
  • 孝之
  • 伊也(一色義定のち吉田兼治室)
  • 女(木下延俊室)
  • 女(長岡好重(藤孝の実弟)室)
  • 女(長岡孝以のち小笠原長良室)

正室:明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。側室は郡宗保の娘、明智光忠の娘、清田鎮乗の娘、真下元家の娘。

墓所は熊本県熊本市中央区黒髪の泰勝寺跡、京都府京都市北区紫野大徳寺町の高桐院。戒名は松向寺殿前参議三斎宗立大居士。

父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名。「利休七哲」の一人に数えられる。茶道の流派・三斎流の開祖。

細川ガラシャ。父は明智光秀、細川忠興の正室。最期は壮絶
細川ガラシャはキリスト教信徒(キリシタン)として有名。父は明智光秀、細川忠興の正室。本能寺の変後、しばらく幽閉されていたことも有名である。しかし細川ガラシャといえば、やはり壮絶な最期ではないだろうか。美談として語られることが多く、いろいろな題材として取り上げられている。最期については、当時の書物で書かれ方が違う。

細川輝経の養子~織田信忠に仕える

1563年(永禄6年)11月13日、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれる。

義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となる。この養子縁組は系譜上のもので、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した。

永禄の変の後、父・藤孝や明智光秀らは織田信長を頼って、義輝の弟・義昭を第15代将軍に擁立。信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男・信忠に仕えた。

  • 1577年(天正5年)3月、紀州征伐。忠興の初陣。15歳。
  • 1577年(天正5年)10月、信貴山城の戦い。松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和・片岡城を父や明智光秀と共に落とす。
  • 1577年(天正5年)10月2日、信長直筆の感状を受ける。

有名ではあるが、松永久秀は信長に対して謀反を起こした。

  • 1578年(天正6年)、元服。信忠より偏諱を受け、「忠興」と名乗る。
  • 1579年(天正7年)、父や光秀と共に丹後守護である建部山城城主・一色義道を滅ぼした。
  • 1579年(天正7年)、信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚。

信長の命により「九曜」を定紋とし、これが細川家の家紋となった。これは忠興が信長の小刀の柄に九曜が描かれているのを大変気に入っていたことを、信長が覚えていたためと言われる。

  • 1580年(天正8年)、父・藤孝が丹後南半国の領主となる。
  • 1581年(天正9年)、京都御馬揃え。一色満信らとともに参加。

「信長公記」によれば、信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという。

本能寺の変

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1582年(天正10年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こす。光秀は藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子は拒否。

玉子(ガラシャ)を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建つ。

父・藤孝は速やかに剃髪して弔意をあらわし、光秀にはくみせずの姿勢を明確にした。この姿勢により光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった。

忠興は、父・藤孝が隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、丹後宮津城主となった。

次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、北丹後の一色満信を殺害後、一色家旧臣を攻め滅ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許された。

豊臣政権

細川忠興は羽柴秀吉の配下となる。

  • 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。
  • 1585年(天正13年)、従四位下・侍従に叙任。

羽柴姓を与えられ七将に数えられた。

羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に
小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。

  • 1587年(天正15年)、九州征伐。
  • 1588年(天正16年)、豊臣姓を下賜。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

  • 1592年(文禄元年)、文禄の役。九番隊に属し、慶尚道などの制圧を担当。
  • 1592年(文禄元年)10月、長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加。
  • 1593年(文禄2年)6月、第二次晋州城攻防戦にも参加。晋州城を陥落させた。

第一次晋州城攻防戦の前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、晋州城を落とすことは出来なかった。

  • 1595年(文禄4年)、豊臣秀次事件。
  • 1598年(慶長3年)8月、太閤・豊臣秀吉が死去。石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。

豊臣秀次事件では、秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられた。しかし松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納。

「細川家記」「松井家譜」によれば、金子用立てに力をかしたのが徳川家康であるとされる。

豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

  • 1599年(慶長4年)、石田三成襲撃事件。加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らとともに加わる。
  • 1599年(慶長4年)、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増。

これは豊臣家の大老の筆頭・家康の推挙であり、城代には重臣の松井康之・有吉立行を置いた。

都合18万石の大名となる。

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。
加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。東軍に与する。

父と正室が在京していたため、去就が注目された。しかし東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われる。

大坂城内の玉造の細川屋敷にいた正室・玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害。

護衛の稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居たため逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡。

のち忠興は追討をかけるが、家康が家来として召し抱えたため断念している。この事件に際して忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。

田辺城の戦いで、弟・幸隆と父・幽斎は忠興の留守をよく守り、丹後・田辺城に籠城。しかし勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将・前田茂勝の丹波・亀山城に入った。

豊後国では杵築の杵築城が旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃された。しかし松井康之と有吉立行が防戦。石垣原の戦いにおいて、黒田如水が救援に駆けつけ、吉統を打ち破った。

1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原本戦。黒田長政らとともに石田三成の本隊と激闘。136の首級を上げる。

論功行賞により、丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増。豊後杵築6万石は、そのままとされたので39万9,000石の大名となる。

豊前国では前領主・黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。

ちなみに長政が移った筑前の年貢も小早川秀秋によって持ち去られている。

1602年(慶長7年)より、小倉城を九州の要とするため大規模改修に取り掛かる。

のち中津城から小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。

守りを固めるため、

  • 弟・幸隆:竜王城
  • 弟・孝之:香春岳城
  • 重臣・松井康之:杵築城

を城主として配置している。

小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

小倉藩主~肥後藩主

1611年(慶長16年)3月24日、病に倒れる。伏見城の徳川家康のもとへ祗候するために上洛をした時であった。

家康は本多正純を通して、漢方薬の万病円を忠興に遣わしている。

  • 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。戦後、松平の苗字の下賜を辞退。
  • 1620年(元和6年)、病気のため、三男・忠利に家督を譲って隠居。出家して三斎宗立と名乗る。
  • 1632年(寛永9年)、忠利が豊前小倉藩40万石から肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に加増・移封。

忠興は、忠利に44万5,000石を残し、自分は八代城に入り9万5,000石を隠居領とした。北の丸を隠居所とし、本丸には四男・立孝を入れた。

忠興に従って八代郡高田郷に移った上野喜蔵と長男・忠兵衛によって「高田焼」が創始されている。

忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようである。

  • 1645年(正保2年)閏5月、四男・立孝が早世。
  • 1645年(正保2年)12月2日、細川忠興が死去。享年83。

臨終の際には

「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」

と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。

八代城には立孝の子・宮松(行孝)が残された。従兄の熊本藩主・光尚(忠利の子、忠興の嫡孫)は、これに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とした。

筆頭家老・松井興長(長岡佐渡守、松井康之の次男)を八代城3万石の城主(城代)とした。興長の跡は忠興の六男・寄之(よりゆき)が養子となって嗣いでいる。

文化人としての細川忠興

父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。

「利休七哲」の一人に数えられる。利休が切腹時は、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされる。

北野大茶湯の折には松向庵という名の茶席を設けた。のち「松向殿」と呼ばれたのは、それに由来している。

千利休(宗易)。織田信長の茶頭から豊臣秀吉の側近へ、わび茶を完成
堺の商家の生まれで、商人・茶人の千利休(宗易)。わび茶(草庵の茶)の完成者であり、「利休七哲」など数多くの弟子を抱え、茶聖と称された。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠。天下人・豊臣秀吉の側近の一面もあり、茶人として名声と権威を誇った。「黄金の茶室」の設計でも有名だが、利休の茶道とはかけ離れたものだろう・・・。

医学への造詣としては、徳川家康が製剤させた漢方薬の紫雪に関心を持ち、江戸の忠利より薬能書付きのこれの製法を入手し、「玉弥」というお抱え医師の指導のもと、自ら製剤している。

また武具への造詣も深く、幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示した。

  • 打刀の拵(外装)-肥後拵
  • 甲冑-越中具足、越中流具足ないし三斎流具足

と称される形式を確立した。

 細川忠興の人物評

細川忠興は、大変な戦上手で、政治家としても優れていた。また戦国武将の中でも有数の冷徹さと気性の激しさを持っている。

「茶道四祖伝書」では、忠興は「天下一気の短い人物」と書いている。

足利将軍家、織田氏、豊臣氏、徳川氏と多くの主君に仕えながら細川氏を生き延びさせた政治手腕があったが、身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面もあった。

田辺城の戦いから、父・幽斎とも一時不和になり、弟・興元とも不仲であった。

丹後攻略戦では、同じ足利一門の一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵をみな殺しにするなど非常に残忍な手法も取った。

逸話としては、一色義定に嫁いでいた妹・伊也はそのことを恨み、戦後に兄に斬りかかったというものが存在する。

忠興には、右の額に投石で受けた傷、鼻に刃物で切り裂かれた傷があった。

首に突き付けられた刀を間一髪のところでかわすが、妹・伊也に鼻を真一文字に切り裂かれた。

額の傷は初陣の城攻めで一番乗りを果たして信長より感状をもらっており自慢にしていたが、妹・伊也の恨みのこもった鼻の傷が残って以降、大名の間では忠興の前で顔の傷のことを話題にするのはタブーになった。

短気な忠興であるが、晩年は角が取れて丸くなったといわれる。

徳川秀忠から天下の政務について問われると

「角なる物に丸い蓋をしたようになされませ」

と答えた。

さらに秀忠が「どんな人物を登用するのがよいか」と尋ねると

「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう(明石の潮の流れは激しいが、その潮にもまれた蠣は味がいいから、人も人にもまれた者こそよき人柄になる)」

と答えたといわれる。

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

正室・玉子(ガラシャ)との夫婦仲

正室・玉子(ガラシャ)への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶのを避けている。

秀吉の禁教令発布直後、正室・玉子(ガラシャ)はキリシタンになった。激怒した忠興は、侍女の鼻をそぎ、さらに玉子を脅迫して改宗を迫ったと言われている。

この頃より夫婦仲が冷めた可能性があるとされる。

有名な話では、玉子の美しさに見とれた「植木職人」を手討ちにしたものがある。

朝鮮出兵中、忠興は玉子に何通もの手紙を書いている。その内容は「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったといわれる。

細川忠興の子

細川忠興の子を記述。

男子

  • 長男:細川忠隆-細川(長岡)内膳家
  • 次男:細川興秋-細川興元養子
  • 三男:細川忠利-熊本藩細川家
  • 四男:細川立孝-宇土藩細川家
  • 五男:細川興孝(おきたか)-細川(長岡)刑部家
  • 六男:松井寄之(まついよりゆき)-松井(長岡)興長養子

女子

  • おちょう(前野景定室)
  • こほ(松井興長室)
  • たら(稲葉一通室)
  • まん(烏丸光賢室)

正室・玉子(ガラシャ)との間には3男2女が生まれている。

細川忠隆

関ヶ原の戦いの時、ガラシャは大坂屋敷で自害した。一方、忠隆の正室・千世(前田利家の娘)は脱出して生き延びた。忠興はこれを咎め、千世を離縁して前田家と縁を切るよう長男・忠隆に命じた。

しかし忠隆は千世を庇い、離縁を承知しなかったため、忠興は忠隆を追放・廃嫡となった。

のち忠隆は千世と長男を連れ、祖父・幽斎を頼って京都で隠居。

細川興秋

次男・興秋は、一時叔父の興元の養子に出されていたこともあり、やはり嫡子とされなかった。

  • 1605年(慶長10年)、三男・忠利に代わって江戸への人質に出される途中に細川家から出奔。
  • 1615年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣方に味方する。戦後、父・忠興の命を受けて自害を余儀なくされている。

細川忠利

家督を相続したのは、三男・忠利。長男・忠隆が廃嫡されたからである。

忠利は関ヶ原の戦いの前後、江戸に人質として出されている。

この時期に徳川秀忠やその家臣たちと親交を深めた。これが嫡子として選ばれる際に有利に働いた。

のち忠利の子孫が嫡流家として続いた。しかし、若くして死去した熊本藩7代藩主・細川治年には男子がいなかった。

嫡流家(熊本藩主家)を継いで熊本藩8代藩主となった細川斉茲は、忠利の異母弟(忠興の四男)立孝の系統である支藩・宇土藩からの養子であった。

よって斉茲の子孫となる以後の熊本藩主や、子孫である「細川護熙」はガラシャの血をひく忠利の男系直系子孫ではない。

細川忠興の官位

細川忠興の官位を整理する。

  • 従五位下・越中守
  • 従四位下・侍従、左少将(左近衛権少将?)
  • 従三位・参議
  • 贈正三位

真田丸では矢柴俊博が演じる

大河ドラマ「真田丸」では細川忠興を矢柴俊博が演じている。

注目していきたいと思う。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

細川忠興 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

細川忠興については、気が短い性格ではあったといわれる。

文化教養人でありながら、優れた武将・政治家でもあった。

評価されてないわけではないが、もう少し評価されてもいいと思うけど・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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