羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に

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小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

小牧・長久手の戦いといえば、秀吉と家康が唯一がっぷり四ツに組んだ合戦ですね~。そしてのちの天下人・秀吉に唯一土をつけてるのが徳川家康。ほんとにスゲー!

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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大阪城築城

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後、柴田勝家の領地・越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられた。

大坂は秀吉が接収し、1583年(天正11年)に大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築城。

同年暮れ、大坂城に織田信雄を含む諸将を招いている。豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。

清州会議。羽柴秀吉と柴田勝家の命運を分けた織田家宿老会議
清州会議によって羽柴秀吉と柴田勝家の立場は逆転した。逆臣・惟任(明智)日向守光秀を秀吉が討ったことが大きいのだろう。筆頭家老・勝家の影響力は低下し、秀吉が重臣筆頭の地位を確立して、織田家の勢力図は大きく変化した。勝家は秀吉によって滅ぼされ、天下取りへの道を駆け上がった。織田家の後継者決定、領地再分配を目的とした会議。
羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!

小牧・長久手の戦い

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小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)。1584年(天正12年)に羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。

尾張北部の小牧山城、犬山城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊で合戦が行なわれた。この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役になった。

小牧の役では紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫している。

今回「沼尻の戦い」「紀州征伐」「末森城の戦い」は記述しない。

織田信雄の三家老を懐柔

1584年(天正12年)、織田信雄は、羽柴秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。信雄は1583年(天正11年)に安土城を退去させられてるのも関係悪化の原因である。

羽柴秀吉は織田信雄の家臣・津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとする。

1584年(天正12年)3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、三家老(浅井長時・岡田重孝・津川義冬)らを謀殺し、秀吉に宣戦布告をした。

三河の徳川家康は1582年(天正10年)の本能寺後、織田政権の承認のもと、天正壬午の乱にて織田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した。

その徳川家康が信雄に加担。家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。

池田恒興(勝入斎)を調略

羽柴秀吉は調略により関盛信(万鉄)・九鬼嘉隆・織田信包ら伊勢の諸将を味方につける。どちらに味方するか注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)を、尾張・三河を約束して調略に成功。

1584年(天正12年)3月13日、池田恒興は信雄方・中山雄忠が守る尾張・犬山城を攻略した。

伊勢では蒲生氏郷・堀秀政らが峰城を攻略。

羽黒の戦い

1584年(天正12年)3月15日、秀吉方・森長可が岳父である池田恒興に協力するため居城である美濃・兼山城を出陣。

  • 3月16日、長可が羽黒(犬山市)に着陣。すぐに徳川軍は察知し、松平家忠・酒井忠次ら5,000人の軍勢が羽黒へ向けて出陣した。
  • 3月17日、酒井勢は森勢を奇襲する。酒井勢の先鋒・奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面の松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退。

森長可は酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走。森勢の死者は300余人。

森長可と高坂昌元(春日信達)の因縁。一族まで及ぶ深き恨み
武田家滅亡、本能寺の変での織田信長の横死により森長可と高坂昌元(春日信達)の歯車は狂った。それが運命かのように・・・。昌元は人質として差し出した嫡男・庄助を長可に殺害され、最期は真田・北条に内通したとして上杉景勝により謀殺。長可は小牧・長久手の戦いで戦死。因縁は二人の死後、慶長年間に結末を迎える・・・。

小牧の戦い

羽柴秀吉は雑賀党に備えて大坂にいた。

  • 3月18日、徳川家康が小牧山城を占拠。
  • 3月21日、羽柴秀吉が30,000の軍勢で大坂を出陣。
  • 3月27日、秀吉が犬山城に入城。

羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万の大軍勢同士で対峙する。両軍は長期間対峙し、戦線は膠着する。

長久手の戦い

羽柴軍、織田・徳川連合軍は小牧付近で長期間対峙している。

  • 4月4日、池田恒興が羽柴秀吉に三河への奇襲案を進言。
  • 4月5日、ふたたび恒興が秀吉を訪れ、「森長可とともに羽黒の戦いの恥をそぎたい」と述べた。秀吉は許可。
  • 4月6日、三河西部へむけ羽柴秀次を総大将に出発。

  • 第一隊:池田恒興(兵6,000)
  • 第二隊:森長可(兵3,000)
  • 第三隊:堀秀政(兵3,000)
  • 第四隊:羽柴秀次(兵8,000)

三河奇襲作戦を開始した羽柴秀次軍だが行軍が鈍足のため織田・徳川連合軍に知れてしまう。織田・徳川軍は兵力を二分して各個に敵を撃破することを決める。

  • 4月9日、岩崎城の戦い:池田恒興勢は丹羽氏重が守る岩崎城(日進市)を約三時間で攻略。
  • 4月9日、白山林の戦い:羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)で休息中に後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢に襲撃され壊滅状態。
  • 4月9日、桧ヶ根の戦い:秀次勢のは敗報を聞いた堀秀政勢は桧ヶ根に陣を敷き、徳川軍を返り討ちにしている。

白山林の戦いで秀次の弟・木下利匡、木下祐久らの木下一族が戦死。

徳川軍出現により池田恒興、森長可は占領した岩崎城より引き返す。徳川家康は富士ヶ根より前山に陣を敷く。

織田・徳川連合軍は右翼に家康勢3,300、左翼に井伊直政勢3,000、これに織田信雄勢3,000。

対する羽柴軍は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000、左翼に森勢3,000、後方に恒興勢2,000。

4月9日午前10時ごろ、両軍が激突。森長可が狙撃されて討死した辺りから一気に徳川軍有利となる。

池田恒興も永井直勝の槍で討死、池田元助も安藤直次により討死、池田輝政も敗走。恒興・森勢は潰滅、戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わる。

長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人。

豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。

休戦・和議

羽柴秀吉は圧倒的な兵力を持ちながら、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出さなければいけなくなった。加賀野井城など、織田信雄方の美濃における諸城を次々と攻略。信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策する。

いっぽう織田信雄も徳川家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実であった。

  • 11月12日、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に秀吉と信雄が講和。
  • 11月17日、秀吉と信雄が講和したことにより、大義名分を失った家康は三河へ帰国。

伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。

秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を試みる。家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。

これにより小牧の役は終結する。

さらさら越え

羽柴秀吉が織田信雄・徳川家康とそれぞれ単独講和したため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立。のち紀州攻め・四国攻めにより制圧。

越中・佐々成政が雪深い立山を越えて、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を説得するが聞き入られず、成政は同じ道をたどって越中に帰っていった。これが伝説の「さらさら越え」である。

羽柴秀吉、朝廷への接近

羽柴秀吉は秀吉政権確立へ爆進するが、家康との講和には2年を要する。

小牧・長久手の戦いの最中に叙位任官される。

  • 1584年-天正12年10月3日-従五位下・左近衛権少将
  • 1584年-天正12年11月21日-従三位・権大納言

「従五位下・左近衛権少将」の叙位任官から、わずか一月半後には「従三位・権大納言」を叙位任官。あっという間に公卿である。

羽柴秀吉が朝廷に接近し、朝廷も秀吉を無視できなくなったのが伺える。

織田信雄との和議後、自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった。

織田信長と織田五大将の官位
織田信長と織田五大将である柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉の官位についてまとめてみました。織田信長の家臣は、意外と高位高官のものがいません。豊臣秀吉の家臣とは、大きく違います。秀吉は天下統一もしてしまい、家臣を繋ぎ止めるために官位、羽柴姓、豊臣姓の乱発をします。信長と秀吉とでは、そこが大きく違います。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

小牧・長久手の戦い – Wikipedia

豊臣秀吉 – Wikipedia

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まとめ

小牧・長久手の戦いで秀吉は「ほんとに家康は強い!」って痛感したんだと思います。

家康を臣従されるために、なりふりかまってないです。妹・旭姫を家康の正室に、母・大政所を人質に出します。

徳川家康も凄いんですけど、どんな手を使っても「強い徳川家康」を臣従させた関白・豊臣秀吉はやっぱり凄い!!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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