石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗

石田三成襲撃事件。三成と七将との対立~結城秀康と石田正宗,アイキャッチ画像
この記事の所要時間: 624(文字数:3,844文字)

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

七将、石田三成襲撃事件、石田正宗について記事投稿します。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

スポンサーリンク

七将

最初に七将を説明します。

七将(しちしょう)とは、豊臣秀吉子飼いの猛将7人のことである。

一般的には、

  • 福島正則(尾張清洲城主)
  • 加藤清正(肥後熊本城主)
  • 池田輝政(三河吉田城主)
  • 細川忠興(丹後宮津城主)
  • 浅野幸長(甲斐甲府城主)
  • 加藤嘉明(伊予松山城主)
  • 黒田長政(豊前中津城主)

以上7人のことであるが、蜂須賀家政(阿波徳島城主)、藤堂高虎(伊予宇和島城主)も加わる場合がある。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

石田三成襲撃事件

本題である石田三成襲撃事件について。「七将襲撃事件」ともいわれる。

豊臣政権内の武断派の七人(加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎)が行政を担当する文治派の石田三成を襲撃しようとしたが、徳川家康に仲裁された出来事。

  • 1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉が病死。豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立が激化する。
  • 1599年(慶長4年)1月21日、家康の無断婚姻を「秀吉が生前の1595年(文禄4年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り問罪使派遣。
  • 1599年(慶長4年)2月2日、家康が利家・三成らと誓紙を交わして和睦。

いちおう和睦はしたが軍事的緊張は継続していたようである。そして石田三成襲撃事件・七将襲撃事件に至る。

1599年(慶長4年)閏3月3日、二派の調停に努めた五大老の一人・前田利家が死去。これにより両派の確執は増す。

武断派は朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成派に恨みを抱いていた。大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。

石田三成は豊臣秀頼の侍従・桑島治右衛門の通報により武断派の計画を察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れる。

七将は三成不在が分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、加藤清正は佐竹邸にも迫った。

三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に、自身の屋敷がある事を活かして立て篭もった。

翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。

七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否。

家康は、その代わり以下のことを七将に約束している。

  • 石田三成の隠居
  • 蔚山城の戦いの査定の見直し

次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせている。

ドラマなどで三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされる逸話は根拠のない俗説であり史実ではない。史実ではないがドラマチックではある(笑)。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

石田三成襲撃事件の影響

七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られていたとする指摘もある。

結果、石田三成は失脚し、徳川家康の評価が相対的に高まることになった。中立的と見られていた北政所の仲裁を受けていることも影響している。

前田利家の死去から、石田三成襲撃事件、会津征伐、そして関ヶ原の戦いの流れを考えると石田三成は追い込まれ、徳川家康の力は強大になった。

関ヶ原の戦いで七将は東軍の中核となっている。

1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍宣下により江戸幕府を開くことになる。

すべての出来事を家康に利用され、気づいた時にはシナリオ通り家康は天下人になっていた。見事である!

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道
太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る
高台院(北政所)。諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。法名は高台院湖月心公。豊臣秀吉の正室。兄は木下家定、甥に小早川秀秋がいる。

石田正宗

石田三成襲撃事件。三成と七将との対立~結城秀康と石田正宗,画像01

結城秀康は父・徳川家康の命により石田三成を三成の居城・佐和山城に送り届けている。

感謝した三成は豊臣秀吉からの拝領品であり、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗を秀康に譲った。

江戸時代、「石田三成」の名を口にすることは憚られたが、秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したという。

石田正宗は秀康死後、子孫の津山松平家に代々伝えられた。

結城秀康は父・徳川家康に疎まれて育ったと言われている。結城秀康のささやかなる抵抗なのだろうか・・・。

大河ドラマ「真田丸」での石田三成襲撃事件

大河ドラマ「真田丸」でも石田三成襲撃事件・七将襲撃事件の関連が取り上げられた。

第33話「動乱」

1599年(慶長4年)1月21日の出来事が、「伏見のもっとも長い一日」として描かれた。

治部殿(山本耕史)が徳川屋敷に討ち入り、徳川家康(内野聖陽)を殺害しようとする内容であった。

第33話「動乱」は、素晴らしい放送回ですので、機会があれば視聴してみてください。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

「真田丸」第33話「動乱」感想。豊臣家に忠義を尽くす佐吉と紀之介
刑部殿が心配していたとおり、治部殿と家康の対決の構図になってしまった。源次郎信繁と刑部殿は、治部殿に諦めさせるために策を尽くす。治部殿は追い詰められた。しかし追い詰められた治部殿を皆が救う。治部殿を取り巻く刑部殿・源次郎信繁・景勝・兼続に泣けてくる・・・。

第34話「挙兵」

石田三成襲撃事件・七将襲撃事件、治部殿の佐和山への蟄居が描かれた。

ほか直江状なども取り上げられており、少々詰め込みすぎる放送回のような気がした。

それが視聴率に反映したのだろうか・・・。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

「真田丸」第34話「挙兵」感想。七将襲撃事件~直江状・会津征伐
治部殿は徳川屋敷襲撃を画策したが未遂に終わった。暫くの間、伏見・石田屋敷で謹慎していたが、前田利家の尽力により謹慎は解かれた。その前田利家の寿命は尽きようとしている。この時期、利家は豊臣家の精神的支柱でもあった。秀吉の遺言により、秀頼の後見役であり、豊臣家諸将に対して睨みもきいた。しかし槍の又左は・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

七将 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

大河ドラマ「石田三成襲撃事件」は描かれるのでしょうか?

少々史実を曲げてもドラマチックに描いてほしいものです。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

スポンサーリンク

フォローする(Push7もあります)

コメントの入力は終了しました。