「真田丸」第34話「挙兵」感想。七将襲撃事件~直江状・会津征伐

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治部殿は徳川屋敷襲撃を画策したが未遂に終わった。暫くの間、伏見・石田屋敷で謹慎していたが、前田利家の尽力により謹慎は解かれた。その前田利家の寿命は尽きようとしている。この時期、利家は豊臣家の精神的支柱でもあった。秀吉の遺言により、秀頼の後見役であり、豊臣家諸将に対して睨みもきいた。しかし槍の又左は・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

治部殿は徳川屋敷襲撃を画策したが未遂に終わったが、豊臣恩顧の反三成勢力はおさまりがつかなかった・・・。

歴史好きの管理人が大河ドラマ「真田丸」レビューを好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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大河ドラマ「真田丸」第34話「挙兵」あらすじ

前田利家と徳川家康の話し合いにより、治部殿の謹慎は解かれた。

1599年(慶長4年)閏3月3日、利家が死去。利家存命中、なんとか収まっていた豊臣恩顧の反三成勢力が三成討伐のため決起。伏見城下は一触即発の状態になった。

源次郎信繁は危機を回避すべく奔走する。しかし北政所・淀殿にはとりあってもらえない。困った源次郎信繁は刑部殿に相談する。源次郎信繁は刑部殿が推薦した家康に面会した。

家康のとりなしにより福島正則・加藤清正らは、矛を収めた。治部殿の佐和山への蟄居が決まる。これは政(まつりごと)から身を引くことを意味する。

そして家康が伏見城へ入城した。家康に仲裁を頼んだことはパンドラの箱であった。家康は政敵・石田三成を兵を出すことなく、政(まつりごと)の表舞台から引きずり落とすことに成功した。

話は少し進み、時は1600年(慶長5年)5月。この頃、家康は大坂城にいて権勢は絶大なるものがあった。

会津・上杉家に謀反の噂が持ち上がる。家康は上杉景勝に上洛を促すが、景勝・直江兼続は「直江状」により家康を痛烈に批判。家康は会津・上杉征伐を決意する。

上杉家から密書を受け取った安房守は、上杉家への加勢を決断する。この機に乗じて、信玄公以来の甲斐・信濃を取り返すつもりだ。源三郎信幸・源次郎信繁も父・安房守に従う。

家康は、会津征伐は豊臣と上杉の戦いにしたい。多少のせめぎあいがあるが、流れは家康の思惑通りになっていく。

家康が会津征伐に出払った隙に、反徳川家康勢力が集結した。宇喜多秀家を中心に家康弾劾を決定。

いよいよ毛利輝元を総大将に西軍が挙兵するシナリオが展開されようとしている・・・。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。
大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。
宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

石田三成襲撃事件・七将襲撃事件

豊臣家の精神的支柱と言ってもいい前田利家の死は、豊臣家の文治派と武断派の争いを激化させた。

利家存命中は、治部殿(山本耕史)に手を出さないでいた「七将」と呼ばれる武断派は、利家の死をもって五奉行・石田三成の襲撃を実行に移す。

「石田三成襲撃事件」「七将襲撃事件」といわれる。

徳川家康(内野聖陽)の裁定により、治部殿(山本耕史)の佐和山への蟄居が決定。福島正則(深水元基)・加藤清正(新井浩文)・細川忠興(矢柴俊博)らの七将は、ひとまず引き下がった。

石田三成襲撃事件の経緯と影響、三成と結城秀康の「石田正宗」などを記事投稿してます。よろしければ参考にしてみてください。

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。
細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

後藤又兵衛

七将たちが伏見・石田屋敷に踏み込んだ時、後藤又兵衛基次も参加していた。

まだこの時は、黒田家の家臣である。

演じるのは哀川翔。

又兵衛は、のち黒田家を出奔し浪人となる。

大坂冬の陣・大坂夏の陣では、真田信繁(堺雅人)とともに「大坂城五人衆」と呼ばれる。

後藤又兵衛(基次)。黒田長政との確執は?黒田二十四騎・黒田八虎
後藤又兵衛(基次)。「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。官位は従六位下・隠岐守。黒田家を出奔したのに「黒田二十四騎」「黒田八虎」に数えられているのが凄い!黒田家を出奔したのは他国の者(細川氏、池田氏)と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされる。生存説などは多数で、伝承が多い武将である。

直江状

直江状(なおえじょう)とは、上杉家家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に送った書簡。会津征伐を家康に決意させたとされるが、偽文書ではないが後世に大幅に改竄されたとする説がある。

  • 1600年(慶長5年)2月、越後・堀秀治は会津・上杉景勝が軍備を整えて謀反の兆候があると訴えでる。
  • 1600年(慶長5年)、五大老筆頭・徳川家康は、伊奈昭綱を派遣して上洛を勧告したが、景勝は応じなかった。
  • 1600年(慶長5年)3月、上杉家重臣・藤田信吉が出奔し、景勝の謀反を訴えた。

家康は西笑承兌に「謀叛の噂が流れている」として早期の上洛を勧める手紙を書かせ、昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)に託した。

  • 1600年(慶長5年)4月13日、伊奈昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)が、会津に到着。
  • 1600年(慶長5年)4月14日付で兼続は上洛を拒絶する手紙を送り、会津攻めは決定的となった。

この際に兼続が送った手紙が直江状とされる。

当時使われない文法や不自然な敬語の使い方など内容に疑問があるため後世の改竄・偽作とする見方もある。

増田長盛・長束正家らが家康に送った書状や「鹿苑日録」の記録から、承兌が受け取った兼続の返書が存在し、それにより家康が激怒したことは確かのようである。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

直江状 – Wikipedia

西笑承兌。文禄の役後の講和交渉で冊封状を読み、直江状の宛先
西笑承兌。臨済宗の僧。相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務める。諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。
長束正家。丹羽長秀に仕え、秀吉の直参に。五奉行の末席に加わる。
長束正家は、はじめ丹羽長秀に仕える。のち秀吉の直参として奉公衆に抜擢。官位は従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従。近江国水口岡山城主。五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、石田三成方の西軍に味方するが、捕らえられ切腹。管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」で俳優・平岳大さんが演じた長束正家が印象的。

会津征伐

小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る,アイキャッチ画像

徳川家康(内野聖陽)は、何としても豊臣と上杉の戦いにしたかった。

あくまでも豊臣家の五大老・筆頭の立場として、会津・上杉家を討伐したかった・・・。

史実では、

  • 1600年(慶長5年)6月2日、関東の諸大名に対して会津征伐の陣触れが出される。
  • 1600年(慶長5年)6月6日、大坂城西の丸にて、会津征伐における評定が開かれる。
  • 1600年(慶長5年)6月8日、後陽成天皇より、晒布100反が家康に下賜。
  • 1600年(慶長5年)6月15日、天野康景と佐野綱正が家康出陣中の大坂城西の丸留守居に任じられる。
  • 1600年(慶長5年)6月15日、秀頼より黄金2万両と米2万石が、家康に下賜。

後陽成天皇・秀頼の言葉がある通り、朝廷と豊臣家の許しを得たことになる。

  • 1600年(慶長5年)7月24日、下野・小山にて、鳥居元忠の急使により三成らの挙兵を知る。
  • 1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。

途中割愛したが、小山評定までの流れを記述した。

小山評定後、結城秀康を上杉家の抑えとして残し、他は上方へ引き返した。

それが関ヶ原の戦いに繋がる。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死
忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。
小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る
徳川家康は会津征伐のため下野小山に到着。鳥居元忠の使者から石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した知らせを受ける。1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。西軍・東軍の選別がなされ、東軍が一致団結した大きなイベントであることは間違いない。その流れで関ヶ原の戦いに至る。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

会津征伐 – Wikipedia

そして真田家から見れば、犬伏の別れ・第二次上田合戦に繋がる。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。

大河ドラマ「真田丸」第34話「挙兵」レビュー

第34話「挙兵」で、思いついたことをつらつらと・・・。

思い込みが激しい春

治部殿(山本耕史)が春(松岡茉優)のことを「あの女は苦労するぞ」と言ってた意味が、ようやくわかった。

源次郎信繁(堺雅人)ではないが、管理人もモヤモヤしていた。

治部殿(山本耕史)は、御礼のつもりで筆を渡したのが、春(松岡茉優)が勘違いしたなんて・・・。

動揺した春(松岡茉優)は、障子を破いてしまった。

きっと春(松岡茉優)は治部殿(山本耕史)に憧れていたに違いない。

それにしても治部殿(山本耕史)も「罪なお人」である(笑)。

竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘
竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘。信繁(幸村)とは真田幸昌(大助)、片倉守信、あぐり(蒲生郷喜室)、菖蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)をもうける。関ヶ原の戦い後、幽閉された九度山での生活は厳しく、生活を支えるために真田紐を考案したとされる。現状では信頼できる資料が少なすぎる。
【真田丸】大谷吉継の娘・春を演じる松岡茉優がキレイに見える!
真田丸のキャスティングで大谷吉継の娘・春を演じるのが松岡茉優さんであることは、以前から知っていた。特別に楽しみにしていたわけではなく、普通に時を過ごしていた。それが春が初登場のシーンで、不覚にも「ドキッ」としてしまった・・・。

事件の匂いがしてならない「きり」

北政所(鈴木京香)は、大坂城を出て出家する用意をしていた。

きり(長澤まさみ)は暇を出され、本人の希望により細川忠興(矢柴俊博)の屋敷に奉公することが決まっていた。

源次郎信繁(堺雅人)は、心配して上田へ帰るように言っているのだが・・・。

きり(長澤まさみ)の行く所事件あり。

この後すぐ、細川屋敷で凄いことが起こる。細川ガラシャが、ああして、こうなって・・・。

高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る
高台院(北政所)。諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。法名は高台院湖月心公。豊臣秀吉の正室。兄は木下家定、甥に小早川秀秋がいる。
真田信繁(幸村)の側室、高梨内記の娘。真田丸では「きり」
真田信繁(幸村)の側室で高梨内記の娘。真田丸では「きり」という名前で長澤まさみが演じていると言ったほうがわかるでしょう。信繁(幸村)との間には、次女・於市、三女・阿梅(片倉重長後室)をもうけています。九度山にも同行している。阿梅は片倉小十郎重長の後室になり、信繁(幸村)の次男・大八も片倉家に養育されたといわれています。
細川ガラシャ。父は明智光秀、細川忠興の正室。最期は壮絶
細川ガラシャはキリスト教信徒(キリシタン)として有名。父は明智光秀、細川忠興の正室。本能寺の変後、しばらく幽閉されていたことも有名である。しかし細川ガラシャといえば、やはり壮絶な最期ではないだろうか。美談として語られることが多く、いろいろな題材として取り上げられている。最期については、当時の書物で書かれ方が違う。

毅然とした片桐且元

ドラマで片桐且元(小林隆)が、初めてキッパリ物を言った気がする。

会津征伐を前にした徳川家康(内野聖陽)に対して、秀頼の名前を出すなと言っている。会津征伐は、あくまでも徳川と上杉の戦いであることに念を押した。

部屋を出た且元(小林隆)が、慌てて胃薬を飲んでいたのがらしいといえばらしい。

この片桐且元は、のち豊臣家と徳川家の板挟みになる人である・・・。

片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。

関ヶ原の戦いにおける毛利家一門

関ヶ原の戦いにおける毛利家一門について少し書きたいと思う。

五大老・毛利輝元は秀頼補佐を名目に大坂城から動かなかった。

関ヶ原の戦い現地には養子・毛利秀元を大将として派遣。補佐には、吉川広家を任じている。広家は、徳川家と内応済み。

関ヶ原の戦い本戦では、「宰相殿の空弁当」と言われるように兵を動かしていない。南宮山に布陣した総勢3万3,000は機能していない。

そして金吾中納言こと小早川秀秋の裏切り。

どう考えても西軍が勝てるはずがない・・・。

宰相殿の空弁当。毛利家は関ヶ原の戦いで、戦わず弁当とは?
関ヶ原の戦いでの西軍敗北の要因を考えた時、「小早川秀秋の裏切り」「宰相殿の空弁当」は大きな原因といえる。そのどちらにも毛利家一門が関わっているのが面白いといえば面白い。成り行き上、西軍に参加した長宗我部盛親は可哀想である・・・。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

虎之助に耳打ちする佐吉

治部殿(山本耕史)は左衛門佐(堺雅人)に、佐和山へ帰る前に「虎之助(新井浩文)に会いたい」と頼んでいた。

伏見城・治部少輔丸での別れの時、佐吉(山本耕史)は虎之助(新井浩文)に耳打ちした。

驚いた表情で虎之助(新井浩文)は佐吉(山本耕史)を見つめていた。

一体何を耳打ちしたしたのだろう?気になってしょうがない。

治部殿は、

  • 自分ひとりでも徳川と戦う
  • 一緒に徳川と戦おう
  • 秀頼様を頼む
  • 「家康を殺せ」が殿下の遺言である

あたりを耳打ちしたしたのだろうか。個人的には四番目だと思うのだが。それともまったく違うことだろうか・・・。

答えは、もう少し先になるだろう。

いずれにせよ、虎之助(新井浩文)と佐吉(山本耕史)の関係からは、目が離せない!

【真田丸】第34話「挙兵」佐吉が虎之助に耳打ちした内容とは?
【真田丸】第34話「挙兵」の感想記事でも書いたが、石田三成(山本耕史)が加藤清正(新井浩文)に耳打ちした内容を掘り下げて考えてみる。真田丸での三成と清正の関係性は、今までのドラマの描かれ方と少し違う。もちろん対立はしているのだが、何かが違う。タイトルは、あえて佐吉と虎之助の名称を使ってみた。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

「真田丸」第34話「挙兵」視聴率

堺雅人主演の大河ドラマ「真田丸」第34話「挙兵」が2016年8年28日放映された。平均視聴率は13.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

13.2%って、ワースト更新です。24時間テレビの余波か、それとも例の事件の影響かわからないが、ちょっと寂しいよね。

やはりチャリティーマラソンランナーの林家たい平のゴールと放送時間が重なったのが影響か・・・。

別に視聴率だけが全てではないが、落ちすぎのような気がします。

「早丸」と呼ばれるBS視聴率は4.7%。好調をキープ。

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まとめ

治部殿は秀吉の、安房守は信玄公と両者ともに死者の呪縛だろうか。

冷静を装っている源次郎信繁も豊臣家にどっぷりなような気がしてならない。

源次郎信繁は、だれの呪縛だろうか。秀吉の遺言、佐吉を頼むと言われているだけに秀吉の呪縛だと思うのだが・・・。

そして、いよいよ次回のタイトルが「犬伏」。

犬伏の別れは楽しみであるが、なんだか切なくもある。

もう「犬伏の別れ」なんだというのが実感だ。

真田丸での神回となることを期待して・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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