久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道

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太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

徳川家康が「源氏長者」宣旨までの過程を書いてみたいと思う。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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徳川家の家格

1598年(慶長3年)8月18日、太閤・豊臣秀吉が死去。

天下人・秀吉が亡くなったことにより、徳川家康の天下人への道が開けた。

しかし、この時の家康は豊臣家の家臣であり、五大老・筆頭。秀吉の遺言により、立場上豊臣家の舵取りを任されていた。

官位は正二位・内大臣。家格は清華家

官位では主君・豊臣秀頼をしのいでいるが、問題は家格であった。そして秀吉もそうだが、家康の出自も怪しい。

秀吉同様、家康も朝廷の権威は必要だったのではないかと・・・。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。

豊臣家の家格

少し遡って豊臣家について。

家康の主君・豊臣秀頼の官位は従二位・権中納言。家格は摂関家。将来は関白が見えている。

豊臣秀次事件以来、関白は空位のままである。これは秀吉によるもので、天下人・秀吉は、それくらい力があった。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。

そもそも秀吉は、近衛信輔と二条昭実による「関白相論」に乗じて関白に就任している。

秀吉は豊臣姓を賜り、関白には豊臣秀次が就任。

関白職は信輔に譲るという約束は反故にされ、信輔は病気になり薩摩国へ左遷(事実上の流罪)。

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。

秀吉は関白により、武家と公家を掌握した武家関白制を目指した。

久我敦通と勾当内侍(長橋局)のスキャンダル

話を秀吉の死後に戻す。

1599年(慶長4年)、久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし・長橋局)の密通の風聞がたった。これはスキャンダルになる。

久我敦通・通世親子は、後陽成天皇の勅勘を受けて家領の多くを奪われ京都を追放された。

※勾当内侍(こうとうのないし)とは、律令制度下における宮中の役所・内侍司の判官相当の役職である「掌侍」の筆頭。「長橋局」ともいわれる。女性。

久我敦通の久我家は村上源氏で、この時期、代々「源氏長者」となっていた。家格は清華家。

久我敦通が源氏長者であったことに着目する。

源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)とは、源氏一族全体の氏長者。

原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。

源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。

一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれている。

源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた。

初代は左大臣・源信とされているが、当時の嵯峨源氏及び源氏全体の筆頭公卿・源融または子・源昇が両院別当と源氏長者を兼ねた最初の人物であったと推定されている。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

源氏長者 – Wikipedia

室町時代から戦国時代の源氏長者

室町時代、清和源氏・足利義満が、最初の武家源氏で源氏長者となった。

以降、源氏長者に就任した足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名。

長者の宣旨を受けなかった事実上の長者(淳和奨学両院別当のみ務めた。宣旨を受けたとする説もある)義尚を含めても5名。

源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めた。

戦国時代には再び村上源氏・久我家から源氏長者が任ぜられている。

足利将軍の地位が不安定となり、官位の昇進が停滞したことや公家社会との関係の希薄化によって足利家の源氏長者への関心が低下したことがあったとみられている。

岡野友彦氏によれば、

律令制度が崩壊した後の源氏長者は源氏のなかの最高権威に過ぎなかったが、徳川家康はその権威に着目した。

藤原姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることにより、日本国王に相当する権威を手に入れて公家と武家の掌握に利用した。という足利義満=日本国王論に依拠した

というものである。

通説とはなっていないが、興味深いので管理人は取り上げている。

徳川家康の源氏長者宣旨

徳川家葵紋

そもそも家康は「従五位下・三河守の叙任と徳川改姓」のおり、「藤原氏」を名乗る。それも家康個人だけ。家康の松平氏は源氏を名乗っていた。

そして秀吉の死後、「源氏」へ復姓したと考えられる。

  • 1599年(慶長3年)12月、菊亭晴季が右大臣に還補。
  • 1600年(慶長5年)12月19日、関白に九条兼孝が就任。五摂家に関白職を戻す。

※五摂家(ごせっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。五摂家筆頭は近衛家といわれる。

菊亭晴季は、豊臣秀次事件に連座したとして越後国に流罪。翌年には赦免され帰京していた。

家康が五摂家に関白職を戻したと言っていいだろう。関白・九条兼孝の件は、徳川家康の奏上によるものである。九条兼孝の関白就任は二度目。

家康が公家に根回しをし、五摂家に恩を売った。

菊亭晴季(今出川晴季)。豊臣政権に関与し、娘・一の台は秀次の正室
菊亭晴季(今出川晴季)。羽柴秀吉に関白任官をすすめて豊臣政権と密接な関係を築いた。官位は従一位・右大臣。娘・一の台は豊臣秀次の正室。豊臣秀次事件に連座したとして越後に流罪となるが、徳川家康のとりなしにより右大臣に復職している。

  • 1602年(慶長7年)1月6日、従一位。
  • 1603年(慶長8年)2月12日、右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。

家康は、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣下を受けている。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。

徳川秀忠の征夷大将軍宣下

ここで家康の嫡男・徳川秀忠にも注目してみる。

異説はあるだろうが、秀忠は徳川将軍で唯一人、源氏長者の宣旨を受けていないと言われている。

  • 1601年(慶長6年)3月28日、権大納言に転任。
  • 1602年(慶長7年)1月8日、従二位に昇叙。権大納言如元。
  • 1603年(慶長8年)4月16日、源朝臣秀忠として右近衛大将を兼任。

大臣への登竜門「権大納言」に任じられ、のち「右近衛大将」を兼任する。左右の近衛大将は武官の最高職。

頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)となっている「権大納言兼右近衛大将」。征夷大将軍への下地は固まっている。

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
権大納言兼右近衛大将。頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)となる
源頼朝が武家の棟梁として権大納言兼右近衛大将に任官して以来、武家にとっては嘉例(吉例)となった。近衛大将の唐名は「幕府」であることから、征夷大将軍と同様に近衛大将は重要視された。特に徳川家康は強く意識していたと思う。

  • 1605年(慶長10年)4月16日、源朝臣秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
  • 1605年(慶長10年)5月1日、征夷大将軍宣下。

徳川秀忠の征夷大将軍宣下までを書いてみた。

以降、清和源氏・徳川家が源氏長者と征夷大将軍を世襲する。

岡野友彦氏によれば、幕末維新の混乱期に一時、久我建通が源氏長者となったのではないかと推測している。

そんな徳川将軍家も「左大臣兼右近衛大将(右大将)」だけは忌み嫌ったようである。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

徳川将軍家が左大臣兼右近衛大将(右大将)を嫌った理由
源頼朝が武家の棟梁として右近衛大将に任官して以来、武家の慣例となった。右大臣兼右大将の徳川将軍家は左大臣の組み合わせを重視した。左大臣兼左大将なら問題ないが、左大臣兼右大将を忌み嫌った。その理由を探ってみよう。

久我敦通のスキャンダルとの関連性

久我敦通・通世親子は追放された。

徳川家康は、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣旨を受けている。

これは事実である。

久我敦通のスキャンダルが、作為的なものなのかはわからない。

しかし徳川将軍家は、江戸時代を通じて源氏長者を独占する・・・。

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まとめ

久我敦通のスキャンダルと徳川家康の源氏長者宣旨をつなげて考えてみた。

どう考えても久我敦通のスキャンダルは好都合だ。時期的に無関係だったとは考えにくい。

偶然にせよ、作為的にせよ徳川家康は源氏長者宣旨を受けた。

これは何を意味するのか・・・。

管理人の個人的な意見だが、「関白」は世襲ではないが、「征夷大将軍」「源氏長者」は世襲の前例がある。

それに関白職に就任できるのは藤原氏と豊臣氏。五摂家を相手にするよりはと考えても不思議ではない・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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