羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす

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羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

豊臣秀吉が目指した「武家関白制」をまとめてみました。その背景、前後も調べてみました。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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三職推任問題

関白相論、武家関白制の前に織田信長の三職推任問題を。

  • 1578年(天正6年)、織田信長は右大臣兼右近衛大将の官職を辞任。これ以降、信長は散位の状態。
  • 1582年(天正10年)4月、正親町天皇は信長を太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示した。
  • 1582年(天正10年)5月、正親町天皇の意向が安土城の織田信長に伝えられた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したそうですが、返答の内容は不明である。
  • 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変により織田信長が自害。

三職推任問題は闇の中へ・・・。

羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いの最中に叙位任官される。

  • 1584年-天正12年10月3日-従五位下・左近衛権少将
  • 1584年-天正12年11月21日-従三位・権大納言

そして1585年(天正13年)3月10日、わずか4ヶ月で正二位・内大臣宣下。

信長燃ゆを観賞のため織田信長の官位を調べてみた
2016年1月2日に放映される「信長燃ゆ」を見るにあったて、織田信長の官位を整理したく思い調べてみた。近衛前久との関係から管理人の頭を整理すべく、織田信長の官位を見なおしてみました。「上総介」は自称だろうと思っていたのですが、まさか「尾張守」の書簡が残っていたなんて。。それも大正時代に「正一位」を贈位されてたなんて。
織田信長と織田五大将の官位
織田信長と織田五大将である柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉の官位についてまとめてみました。織田信長の家臣は、意外と高位高官のものがいません。豊臣秀吉の家臣とは、大きく違います。秀吉は天下統一もしてしまい、家臣を繋ぎ止めるために官位、羽柴姓、豊臣姓の乱発をします。信長と秀吉とでは、そこが大きく違います。
羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に
小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。

関白相論の発端

1584年(天正12年)12月、それまで関白・左大臣であった一条内基が二条昭実に関白を譲り、当面は左大臣・一条内基、関白右大臣・二条昭実、内大臣・近衛信輔の体制で当面続くはずであった。

羽柴秀吉により譲位後の仙洞御所は完成している。仙洞御所は正親町天皇の譲位を控え、長年譲位の妨げになっていた。仙洞御所造営の論功行賞、豊臣政権の確立を間近に控え、秀吉に相応の官職を与える必要性が出てきた。

大まかには以下のように推移している。

  • 左大臣:一条内基->二条昭実->近衛信輔
  • 右大臣:二条昭実->近衛信輔->菊亭晴季(前内大臣)
  • 内大臣:菊亭晴季->近衛信輔->羽柴秀吉

1585年(天正13年)5月では関白・二条昭実、左大臣・近衛信輔、右大臣・菊亭晴季、内大臣・羽柴秀吉が確認されている。

(朝廷内部の思惑)

  • 菊亭晴季の辞任を前提に秀吉を右大臣に昇進。
  • 二条昭実は1年程度の関白在任を経て近衛信輔に関白を譲る。
  • 近衛信輔は引き続き左大臣を兼ねる。

これが予定だったのだが・・・。

菊亭晴季(今出川晴季)。豊臣政権に関与し、娘・一の台は秀次の正室
菊亭晴季(今出川晴季)。羽柴秀吉に関白任官をすすめて豊臣政権と密接な関係を築いた。官位は従一位・右大臣。娘・一の台は豊臣秀次の正室。豊臣秀次事件に連座したとして越後に流罪となるが、徳川家康のとりなしにより右大臣に復職している。

羽柴秀吉の左大臣昇進?

羽柴秀吉が右大臣就任の打診を事実上拒否。理由は主君・織田信長は右大臣を極官として惟任(明智)日向守光秀に殺害され、右大臣は縁起が悪い。できれば右大臣を避けて左大臣昇進をお願いしたい。

朝廷では天下人・秀吉には内大臣では不足と考えられていた。このさい秀吉を左大臣昇進、現在の左大臣・近衛信輔は辞任の方向で考えられていた。

関白相論

近衛信輔は前官の状態で関白となることを嫌い、在任わずか半年の二条昭実に関白を譲るように迫る。

近衛信輔は「近衛家では前官(前職大臣)の関白の例はない」と主張。二条昭実は「二条家では初めて任命された関白が1年以内に辞めた例はない」と主張。

1585年(天正13年)5月から6月にかけて当時相論で行われていた「三例三答」と呼ばれる手続きに従い、信輔は4度(本来は3度であるが補足として4度目の意見書を出した)、昭実は3度意見書を提出して自己の主張の正当性と相手の主張の誤りを主張。

最後に信輔が摂関家筆頭としての近衛家の立場を強調。昭実も正平の一統後の混乱下での二条家による後光厳天皇擁立の功績を挙げた。

秀吉、関白就任

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議論は泥沼化の様相を見せ始めて、菊亭晴季は信長への三職推任問題を念頭に、関白就任を羽柴秀吉に勧めた。

菊亭晴季と前田玄以は近衛信輔の父・近衛前久(元関白・太政大臣)に、秀吉を前久の猶子として関白を継がせ、将来的には信輔を後継として関白職を譲る案を提示。

秀吉と前久の関係は良好でなく、前久は藤原氏以外に関白の地位が移ることは屈辱的であった。

  • 秀吉は、あくまで近衛家の一員として関白を継ぐ。
  • 問題の長期化によって二条昭実が1年以上務めれば、結果論的に昭実の論が正しかったとされる可能性があり、面目を失う。
  • 将来は信輔に関白の地位が譲られる。
  • 現時点で日本国内の最大実力者は秀吉である。

などの理由で前久は秀吉の要求に屈した。秀吉は近衛前久の猶子となり、藤原改姓。

1585年(天正13年)7月11日、従一位・関白宣下、内大臣如元。二条昭実・近衛信輔・菊亭晴季に従一位が授けられる。近衛家に1000石、他の摂家に500石の加増。

秀吉の左大臣または右大臣昇進については見送られ、引き続き近衛信輔と菊亭晴季が任じられている。

豊臣の姓を賜る~太政大臣

秀吉は菊亭晴季と相談して、天皇から新たな姓を下賜されることを望むようになる。

  • 1586年-天正14年9月9日-賜豊臣氏
  • 1586年-天正14年12月19日-内大臣辞職
  • 1586年-天正14年12月25日-太政大臣兼帯

藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

武家関白制

1588年(天正16年)、豊臣秀吉は聚楽第行幸の際に後陽成天皇に、弟・六宮胡佐丸を猶子とし、将来的には正式な豊臣氏の養子として関白を譲る意向を奏上。

  • 1589年(天正17年)5月27日、側室・淀殿に鶴松が誕生。
  • 1589年(天正17年)12月29日、親王宣下を受けて「智仁親王」と名乗った六宮に八条宮家を創設。

このにより秀吉は天皇に対して鶴松を自分の次の関白にすることを納得させる。

秀吉は、関白を公家・藤原氏に代わって武家・豊臣氏による世襲とし、これを征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」と位置づけることで、全国の公家と武士を一括して統率しようとしたのである。いわゆる「武家関白制」である。

秀吉は、臣従した諸大名や譜代の家臣に羽柴・豊臣姓・官位の乱発をおこなっている。

関白・豊臣秀次の誕生~秀次事件

  • 1591年-天正19年12月-鶴松が病死。豊臣秀吉が関白辞職、太政大臣如元。甥・秀次(内大臣)を養子として関白を譲る。関白を豊臣氏の世襲とする意思を表明。
  • 1592年-文禄元年-「心の病」に悩んだ近衛信輔が左大臣を辞任。
  • 1594年-文禄3年-内覧就任を望んだ信輔が秀吉の怒りを買い、薩摩国へ左遷(事実上の流罪)。後任の左大臣には秀次が就任。
  • 1595年-文禄4年-関白の左大臣・秀次が秀吉の怒りを買って切腹。秀次の側室の父であった右大臣・菊亭晴季も連座して越後国に流罪。
  • 1596年-慶長元年-徳川家康が内大臣に昇進。

秀吉の側室・淀殿が男子(のちの豊臣秀頼)を産んでいる。

豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。
豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。

豊臣秀吉の死後

秀吉が亡くなると、朝廷では大臣が内大臣・徳川家康しかいないという事態に陥る。

  • 1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉が病死。徳川家康はただちに、菊亭晴季を右大臣に還任。
  • 1600年(慶長5年)、家康は関ヶ原の戦いで勝利後、豊臣政権側の反対を押し切って20年ぶりに九条兼孝を関白に還任。
  • 1601年(慶長6年)、近衛信尹(信輔改め)が左大臣に還任。
  • 1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開き、源氏長者・右大臣。豊臣秀頼は内大臣に昇進。
  • 1605年(慶長10年)、近衛信尹が関白相論発生以来21年目にして関白就任。五摂家による持ち回りが復活。

名実とともに豊臣政権とその根幹にあった武家関白制は完全に崩壊。徳川将軍家は武家の棟梁である征夷大将軍と、公家を含めた全ての源氏を統率する源氏長者を兼ねて、武家と公家の双方を支配する。

  • 1611年(慶長16年)3月21日、後水尾天皇の即位に合わせて14名の公家が一斉昇進。
  • 1611年(慶長16年)4月21日、後水尾天皇の即位に合わせて19名の公家が一斉昇進。
  • 1615年(元和元年)、「禁中並公家諸法度」制定で公家官位と武家官位の完全分離が図られる。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道
太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。

武家公卿

秀吉の従一位・関白・太政大臣への昇進に伴い、一族のみならず武家公卿が誕生。豊臣政権を通じた従属諸大名の官位昇進は統御の一環として利用された。

※公卿とは官職で参議以上、位階で三位以上であり、大臣は「公」、その他の公卿は「卿」と呼ばれた。

1598年(慶長3年)の武家公卿

  • 太政大臣-豊臣秀吉
  • 内大臣-徳川家康
  • 前権大納言-前田利家
  • 権中納言-織田秀信、上杉景勝、毛利輝元、豊臣秀頼、前田利勝(利長)
  • 前権中納言-小早川秀秋、徳川秀忠、宇喜多秀家
  • 参議-結城秀康、毛利秀元、丹羽長重、織田秀雄

秀吉により武家公卿が増えた分、公家が公卿から外れ公武摩擦の不安定要因となった。

最終的に徳川家康が1611年(慶長16年)に「武家官位」を朝廷官位の定員外とすることで決着した。

前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る
前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

羽柴(豊臣)秀吉の官位年表

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羽柴(豊臣)秀吉の官位を年表にまとめます。

  • 1575年-天正3年7月3日-筑前守
  • 1584年-天正12年10月3日-従五位下・左近衛権少将
  • 1584年-天正12年11月21日-従三位・権大納言
  • 1585年-天正13年3月10日-正二位、内大臣宣下
  • 1585年-天正13年7月-近衛前久の猶子となる、藤原改姓
  • 1585年-天正13年7月11日-従一位・関白宣下、内大臣如元
  • 1586年-天正14年9月9日-賜豊臣氏
  • 1586年-天正14年12月19日-内大臣辞職
  • 1586年-天正14年12月25日-太政大臣兼帯
  • 1591年-天正19年12月-関白辞職、太政大臣如元
  • 1598年-慶長3年-太政大臣辞職
  • 1598年-慶長3年8月18日-伏見城で薨去。
  • 1915年-大正4年11月10日-贈正一位

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

関白相論 – Wikipedia

豊臣秀吉 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

豊臣秀吉ってほんとに羽柴・豊臣姓、官位、桐紋を乱発するんだよね。そうしないと政権維持が出来なかったんだよね、きっと・・・。

関白相論、武家関白制を記事にしてみると新たな発見もありました。みなさまのお役に立てばと思っています。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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