前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る

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前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

前田利家の嫡男・前田利長についての記事投稿です。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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前田利長

前田利長(まえだとしなが)。1562年(永禄5年)1月12日~1614年(慶長19年)5月20日。父は前田利家。母は「まつ」。加賀前田家2代。加賀藩・初代藩主。

幼名は犬千代。改名は利勝、利長。通称は孫四郎。別名は羽柴肥前守、越中少将。

兄弟は幸、蕭、摩阿、豪、与免、利政、菊、千世、知好、福、利常、利孝、保智、利貞、利豊ほか。

正室は永姫(織田信長の娘)。子は満姫(石姫・蓮成院)。養子は利常。

養女は先勝院、古那(のちの祖心尼)、(青山長正室)、永寿院(青山吉次室)、竹島殿(久香院、前田直知室)。

戒名は瑞龍院殿聖山英賢大居士。

墓所

墓所は、

  • 富山県高岡市大野の前田利長墓所
  • 富山県高岡市関本町の高岡山瑞龍寺(菩提寺)
  • 石川県金沢市野田町の野田山墓地
  • 石川県七尾市小島町の休嶽山長齢寺
  • 和歌山県高野町の高野山奥の院

織田政権~豊臣政権

1562年(永禄5年)1月12日、前田利家の長男として尾張国・荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は父・利家と同じで犬千代。

  • 1581年(天正9年)、父・利家の旧領・越前国府中の一部を与えられる。織田信長の娘・永姫を正室に迎える。
  • 1582年(天正10年)、本能寺の変。当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせる。

利長は、織田信雄の軍に加わった、もしくは蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったといわれている。信長死後は父・利家とともに柴田勝家に与する。

  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。戦後は父と共に越前府中城へ撤退。
  • 1585年(天正13年)、秀吉が佐々成政の越中国(富山県)を制圧。射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられる。

賤ヶ岳の戦い後、父・利家は秀吉に恭順した。これは前田家にとっては大きなターニングポとなった。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。

利長は秀吉の配下として九州平定、小田原征伐などに従軍。九州平定戦では蒲生氏郷とともに岩石城を落とす功績がある。

羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!

  • 1588年(天正16年)、豊臣姓を下賜。
  • 1598年(慶長3年)、利家より前田家の家督を継ぐ。加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

徳川家康暗殺疑惑事件~慶長の危機

父・利家は豊臣政権において五大老の一人であった。

  • 1599年(慶長4年)閏3月3日、利家が病死。跡をつぎ利長は五大老の一人、豊臣秀頼の傅役となる。
  • 1599年(慶長4年)閏3月3日、石田三成襲撃事件。五奉行・石田三成が襲撃されるなど豊臣政権内部の党派抗争が始まる。

父・利家は秀吉から徳川家康に対抗することを期待されていたため、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされた。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。

利家の遺言では「3年は上方を離れるな」ということであった。

  • 1599年(慶長4年)8月、家康の勧めにより金沢へ帰国。
  • 1599年(慶長4年)9月9日、徳川家康暗殺疑惑事件

増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告。家康は強権を発動して「加賀征伐」を献言。前田家を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられている。

前田家は交戦派と回避派の二つに分かれた。利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。が、豊臣家により拒否。

利長は、初め交戦派であったが、実母・芳春院(まつ)に説得され、重臣・横山長知を弁明のため3度派遣した。

  • 芳春院を人質として江戸の家康に差し出す。
  • 養嗣子・利常と珠姫(徳川秀忠の娘、のちの天徳院)の婚姻。

を約束して交戦を回避。「慶長の危機」といわれる。

徳川家康暗殺疑惑事件には、浅野長政・浅野幸長・大野治長などが連座。

徳川家康暗殺疑惑事件。家康と正信の謀略と言われ、前田家を封じる
豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下への野望を隠さなかった。1599年(慶長4年)には石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件が起きている。今回は徳川家康暗殺疑惑事件を取り上げる。2つの事件に共通しているのは、徳川家康の存在が大きくなったことだ。徳川家康暗殺疑惑事件は家康と本多正信の謀略とも言われている。
大野治長。大野修理と呼ばれ、母は大蔵卿局。淀殿との密通は本当?
大野治長といえば、豊臣秀頼の側近で、淀殿との密通の噂があるくらいしか知りませんでした。やはり母が大蔵卿局だからだろうか。大蔵卿局あっての大野治長だと思う。豊臣家滅亡時の重臣というか舵取りをしていたほどの重要人物である。管理人は「大野修理」のほうがしっくりくる。

関ヶ原の戦い

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1600年(慶長5年)、前田利長が金沢を出陣。

解釈が二説ある。

  • 上杉征伐に出陣する際に背後の丹羽長重を討とうとしたとする説。
  • 石田三成方の挙兵に対抗するための出陣とする説。

徳川家康が会津の上杉征伐(会津征伐)に出陣中、石田三成らが五大老の一人・毛利輝元を擁立して挙兵。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

利長は大聖寺城(石川県加賀市)を攻略し、越前国まで平定。

  • 1600年(慶長5年)8月8日、浅井畷の戦い。小松城主・丹羽長重軍に背後襲われるが、なんとか撃退。
  • 1600年(慶長5年)9月11日、再び西上。弟・前田利政の軍務放棄に悩まされる。
  • 1600年(慶長5年)9月18日、丹羽長重と和議締結。

加賀百万石

関ヶ原の戦い後、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立した。

  • 弟・利政の能登の七尾城22万5,000石
  • 西加賀の小松領12万石
  • 大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)

が加領された。

弟・利政は西軍に与したため領地没収となっている。

利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願。秀家は死罪を免れている。

宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

家康の重臣・本多正信の次男・本多政重を3万石で召し抱えている。

隠居

男子がなかった利長は、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子にしている。

越中国新川郡富山城に隠居。隠居領は新川郡22万石。

1609年(慶長14年)、富山城が焼失。魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城を築く。高岡城は高山右近の縄張と伝わる。

梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れる。隠居領から10万石を本藩へ返納。

1614年(慶長19年)5月20日、高岡城で病死。享年53。法名は瑞龍院殿聖山英賢大居士。

「懐恵夜話」では服毒自殺ともされる。

高岡に葬られ、のち利常が菩提寺として瑞龍寺を整備した。

前田利長の官位履歴

前田利長の官位履歴などを記述。

  • 1585年(天正13年)9月11日、秀吉から羽柴の苗字を賜る。
  • 1585年(天正13年)11月、従五位下・肥前守に叙任。
  • 1586年(天正14年)、従四位下に昇叙。侍従を兼任。
  • 1588年(天正16年)、豊臣の姓を賜る。

  • 1593年(文禄2年)閏9月、左近衛権少将に転任。肥前守如元。
  • 1595年(文禄4年)9月、左近衛権中将に転任。肥前守如元。
  • 1597年(慶長2年)9月28日、参議補任。
  • 1598年(慶長3年)4月20日、従三位・権中納言に昇叙転任。
  • 1599年(慶長4年)閏3月3日、利家が死去。豊臣家五大老の一角として就任。

  • 1599年(慶長4年)12月20日、権中納言辞任。
  • 1605年(慶長10年)6月28日、隠居。
  • 1614年(慶長19年)5月20日、正二位・権大納言追贈。

大河ドラマ「真田丸」では萬雅之が演じる

大河ドラマ「真田丸」では前田利長を萬雅之が演じる。

大河ドラマの前田利長を演じた人物は、

  • 2000年「葵 徳川三代」-長谷川初範
  • 2002年「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」-伊藤英明

である。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

前田利長 – Wikipedia

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1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

管理人にとって前田利長といえば、「徳川家康暗殺疑惑事件」である。

結果的に家康により、前田家は完全に封じられた。

そして前田家にとっても、最大の難局であったに違いない。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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