大野治長。大野修理と呼ばれ、母は大蔵卿局。淀殿との密通は本当?

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この記事の所要時間: 55(文字数:3,051文字)

大野治長といえば、豊臣秀頼の側近で、淀殿との密通の噂があるくらいしか知りませんでした。やはり母が大蔵卿局だからだろうか。大蔵卿局あっての大野治長だと思う。豊臣家滅亡時の重臣というか舵取りをしていたほどの重要人物である。管理人は「大野修理」のほうがしっくりくる。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

大野修理(大野治長)について調べてみた。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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大野治長

大野治長(おおのはるなが)。1569年(永禄12年)~1615年(慶長20年)5月8日。父は大野定長。母は大蔵卿局。京都生まれ。

兄弟は治房、治胤、治純。官位は従四位下・修理大夫。

妻は南陽院。子は治徳、治安(弥十郎)。

茶の湯を古田重然(織部)に学んだ茶人でもある。

大野治房。秀頼の遺児・国松と脱出するが、捕われる。生存説も?
大野治房。母は大蔵卿局。兄は大野治長。兄弟とともに豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣では主戦派の中心人物の一人として指揮を執る。1649年(慶安2年)に生存説が流れたため、江戸幕府によって捜索が行われたとされる。

豊臣秀頼の側近

1569年(永禄12年)、京都に生まれる。

豊臣秀吉に約3,000石の馬廻衆として取り立てられた。母は大蔵卿局であり、秀吉の側室・淀殿の乳母であった。

  • 1589年(天正17年)、和泉国佐野と丹後国大野で併せて1万石の大名となる。
  • 1594年(文禄3年)、伏見城の普請にたずさわる。

秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕える。

  • 1599年(慶長4年)、徳川家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として下総国結城に流罪。
  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。東軍に参戦し武功を上げ罪を許される。

大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母であり、子には大野治長・治房・治胤・治純。豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると、子の大野三兄弟と共に豊臣家で重用され権勢を振るった。最期は秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害。戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。
徳川家康暗殺疑惑事件。家康と正信の謀略と言われ、前田家を封じる
豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下への野望を隠さなかった。1599年(慶長4年)には石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件が起きている。今回は徳川家康暗殺疑惑事件を取り上げる。2つの事件に共通しているのは、徳川家康の存在が大きくなったことだ。徳川家康暗殺疑惑事件は家康と本多正信の謀略とも言われている。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
結城城。別名は臥牛城、結城朝光の築城とされ、結城合戦の舞台となる
結城城の築城は結城家の家祖・結城朝光とされる。朝光は小山政光の三男であるが、源頼朝の落胤説が存在する人物でもある。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたときに、奥州藤原氏の財宝の大半を朝光に恩賞として与えたとされる。結城家は実際よりも裕福だったようで「結城百万石」とも言われた。「結城合戦」の原因の一つになったのだろうか・・・??

大坂の陣

大野治長。大野修理と呼ばれ、母は大蔵卿局。淀殿との密通は本当?,画像

関ヶ原の戦い後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた。のち江戸に戻らず大坂に残る。

1614年(慶長19年)6月、家康の口添えにより5,000石を秀頼より加増。片桐且元の弟・片桐貞隆も一緒に加増された。

返礼として貞隆と駿府にいる大御所・家康、江戸の将軍・徳川秀忠を訪ねた。

豊臣氏家老・片桐且元の追放後は、豊臣家を主導する立場となった。のち豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至ることになる。

  • 1615年(慶長20年)4月9日、大野治長が何者かに襲撃されて負傷。大坂城では抗戦派が勢いを増す。
  • 1615年(慶長20年)4月13日、大坂城の織田有楽斎と尚長親子が、抗戦派が主流となった大坂城から退去。

1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。将軍秀忠の娘で秀頼の正室・千姫を使者とし、自身の切腹を条件に秀頼母子の助命を願う。

助命嘆願はかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害。享年47。

「春日社司祐範記」では、

「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」

と賞賛されている。

片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。
織田有楽斎(長益)。有楽流を創始、利休十哲の一人。有楽町との関係?
織田長益(有楽斎)。織田信秀の十一男。兄・信長とは年齢が13歳離れている。長益系織田家嫡流初代。「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。
千姫(天樹院)。秀頼の正室。大坂夏の陣後は本多忠刻の正室
千姫(天樹院)。父は徳川秀忠。母は継室・江(崇源院)。大坂夏の陣により夫・秀頼と別れる悲劇のヒロインのイメージが強い。そのイメージが強すぎるからか、本多忠刻の正室としての千姫は、あまり知らなかった。そして天寿を全うしている・・・。

淀殿との密通

大野治長といえば淀殿との密通か。豊臣秀頼の父との噂もあるほどである。

慶長四年十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状より、

一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候、(後略)、

「多聞院日記」、姜沆の「看羊録」にも同様の記述もある。

江戸時代の「明良洪範」では、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとしている。

淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。

大河ドラマ「真田丸」では今井朋彦が演じる

大河ドラマ「真田丸」では大野治長を今井朋彦が演じる。

大坂冬の陣・大坂夏の陣では、なくてはならないキャラクターだけに楽しみである。

第43話「軍議」

第43話「軍議」では、今までの歴史ドラマでの大野治長とは違った一面を見せた。

大野修理といえば、あまりよろしくないように描かれていた。

それが第43話「軍議」では・・・。

Twitterのタイムラインには称賛のつぶやきが多数流れた。

「真田丸」第43話「軍議」感想。蘇る安房守の遺言と一味違う大野修理
大坂城での軍議、それは籠城という名の出来レース。大野修理が根回しをして、それぞれを籠城に言い含めている。そんなことを知らない幸村は、真剣に徳川に勝つ方法を考えている。五人衆は各々の望みはあるが、それは豊臣家が勝ってこそ。幸村に心動かされ、あの大野修理までも心動かされる。しかし事実上の大坂城の主人である茶々は・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

大野治長 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

淀殿との密通といえば、石田三成の名もあがったりするのだが・・・。

豊臣秀頼、大野治長の体の大きさから考えて、秀頼の父は本当に大野治長なのかもしれないなんて思っています。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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