淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市

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豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

豊臣秀吉の側室で、秀頼の生母である淀殿を調べてみました。

それではいってみよう!

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淀殿

淀殿(よどどの)。1569年(永禄12年)~1615年(慶長20年)5月8日。父は近江国の戦国大名・浅井長政。 母は織田信長の妹・市。近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)に生まれる。

豊臣秀吉の側室。本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)、浅井菊子(あざいきくこ)。位階は従五位下。

同母妹は初(常高院、京極高次正室)、江(崇源院、徳川秀忠正室)。異母弟妹は「くす」(京極竜子の侍女(姥))、刑部卿局(千姫の乳母)、浅井井頼。

子は棄(鶴松、夭折)、拾(秀頼)。猶女は完子。

乳母は大蔵卿局(大野治長の母)、饗庭局(大叔母・海津殿の次女)、大局(前田利家の弟・佐脇良之の室)。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
初(常高院)。大坂冬の陣では阿茶局と和議をまとめる、京極高次の正室
初(常高院)といえば、大坂冬の陣で阿茶局と和議をまとめることだろう。浅井三姉妹の一人。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)。妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。本名は浅井初(あざいはつ)。一般に「初」の呼び名で知られる。京極高次の正室。
江(崇源院)。浅井三姉妹の末っ子、徳川秀忠の正室。位階は従一位
浅井三姉妹の末っ子で、徳川秀忠の正室・江(崇源院)。淀殿の妹ということもあり、きつい性格な人物であると思っていた。やはり小説・ドラマの影響からか間違って伝わっている部分が多い。調べてみるもんです。それと徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけということにはびっくりした。

小谷城落城~賤ヶ岳の戦い

小谷城落城から賤ヶ岳の戦いまでを簡単にまとめた。

  • 1573年(天正元年)、伯父・織田信長により小谷城落城。母妹らとともに藤掛永勝に救出された。兄の万福丸は捕らえられ、羽柴秀吉によって処刑。
  • 1582年(天正10年)、本能寺の変、清州会議ののち母・市が織田家重臣・柴田勝家と再婚。越前国・北の庄城(現在の福井県福井市)に移る。
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。母・市は勝家とともに自害。

小谷城落城後は、伯父・織田信包により安濃津城、清洲城で保護されたといわれる。また尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともいわれている。

北の庄城落城後は、ドラマなどでは茶々ら浅井三姉妹は秀吉の保護を受けたことになっている。

この辺は諸説ある。

  • 安土城で織田信雄が三姉妹の後見人。一年間、信長の妹・お犬の方が茶々の世話をしている。
  • 安土城で叔父・織田長益(有楽、有楽斎)の庇護を受けた。後に聚楽第で伯母・京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれている。

などがある。

清州会議。羽柴秀吉と柴田勝家の命運を分けた織田家宿老会議
清州会議によって羽柴秀吉と柴田勝家の立場は逆転した。逆臣・惟任(明智)日向守光秀を秀吉が討ったことが大きいのだろう。筆頭家老・勝家の影響力は低下し、秀吉が重臣筆頭の地位を確立して、織田家の勢力図は大きく変化した。勝家は秀吉によって滅ぼされ、天下取りへの道を駆け上がった。織田家の後継者決定、領地再分配を目的とした会議。
羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!
織田有楽斎(長益)。有楽流を創始、利休十哲の一人。有楽町との関係?
織田長益(有楽斎)。織田信秀の十一男。兄・信長とは年齢が13歳離れている。長益系織田家嫡流初代。「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。

豊臣秀吉の側室

豊臣秀吉の側室について簡単にまとめた。

  • 1588年(天正16年)頃、秀吉の側室となる。
  • 1589年(天正17年)、捨(鶴松)を生む。秀吉から山城国・淀城を賜り、「淀の方」と呼ばれるようになった。
  • 1591年(天正19年)、捨(鶴松)死亡。
  • 1593年(文禄2年)、拾(秀頼)を産む。

鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画を奉納。

秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院は浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立。

秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母であり、子には大野治長・治房・治胤・治純。豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると、子の大野三兄弟と共に豊臣家で重用され権勢を振るった。最期は秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害。戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、元五奉行・石田三成が大谷吉継とともに、会津征伐中の徳川家康に対して挙兵。

淀殿は徳川家康と毛利輝元に対して大坂に戻って謀叛の動きを抑えこむ旨の書状を送っている。現職の三奉行と連名で。

毛利輝元が石田方(西軍)の総大将として大坂城に入城。

石田三成は秀頼の墨付きの発給や、秀頼の出陣を望んだが、淀殿は許していない。石田三成方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。

1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦いは徳川方(東軍)が勝利した。

家康は大野治長を大坂城に派遣し、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせた。淀殿は感謝の旨を返答した。

歴史を振り返れる現代人からすると淀殿が「徳川家康は秀頼の家臣」だと思い込んでいるのが哀れになってくる・・・。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。
会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

大坂冬の陣・大坂夏の陣

大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」感想。出奔した石川数正,アイキャッチ画像

徳川家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家は支配地を減らすことになった。

淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。

家康は江戸に武家政権を樹立。家康は秀頼の上洛要求などを拒否。淀殿と家康は対立。

  • 1614年(慶長19年)、大坂冬の陣。大坂城本丸への砲撃を受け講和。
  • 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。大坂城は落城し秀頼や大野治長らと共に自害。

大坂冬の陣は関東との交渉役・片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして勃発している。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。

墓所・戒名

墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。

戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓。

秀頼と同様に淀殿にも逃亡・生存説などの伝説がある。

  • 島津氏を頼り薩摩に落ち延びた説。
  • 上州の厩橋まで遁れてきたという説。

がある。

前橋市の近くに淀君神社と称し淀殿を祀った神社があるという。

淀殿と大野治長

淀殿と大野治長とは乳兄妹である。

二人の密通が噂されていたという記録も残り、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとする説がある。

また秀吉の遺命によって家康が淀殿を娶ろうとしたが、治長の子を身ごもっていた淀殿が拒否したため、家康が治長を流刑にし殺したとの、虚実を交えた風説の記録があるようである。

これらが事実であるかはわからないが、こんな説もあるんだということだけを認識してほしい。

大野治長。大野修理と呼ばれ、母は大蔵卿局。淀殿との密通は本当?
大野治長といえば、豊臣秀頼の側近で、淀殿との密通の噂があるくらいしか知りませんでした。やはり母が大蔵卿局だからだろうか。大蔵卿局あっての大野治長だと思う。豊臣家滅亡時の重臣というか舵取りをしていたほどの重要人物である。管理人は「大野修理」のほうがしっくりくる。

醍醐の花見

淀殿が醍醐の花見の際に詠んだ和歌が三首残されている。

「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならひなき 春にあふらし」

「あひをひの 松も桜も八千世へん 君かみゆきのけふをはしめに」

「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」

この時、従姉妹である松の丸殿(京極竜子)と杯の順番で争ったという事件が起こったといわれている。

戦国一の美女・市

母の市は戦国一の美女と謳われた美女であった。

淀殿は当時の女性としては非常に長身で身長170センチ・メートルほどあったとされる。

父母も当時としては比較的大柄で、息子の秀頼も大柄だったことでも知られている。

大河ドラマ「真田丸」では竹内結子が演じる

大河ドラマ「真田丸」では茶々を竹内結子が演じる。

きり(長澤まさみ)と同じ匂いを感じるのは管理人だけだろうか(笑)。

大河ドラマの茶々を演じた人物は、

  • 1981年「おんな太閤記」-池上季実子
  • 1983年「徳川家康」-夏目雅子
  • 1987年「独眼竜政宗」-樋口可南子
  • 1996年「秀吉」-松たか子
  • 2000年「葵 徳川三代」-小川真由美
  • 2011年「江〜姫たちの戦国〜」-宮沢りえ
  • 2014年「軍師官兵衛」-二階堂ふみ

である。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

淀殿 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

「真田丸」での大坂冬の陣・大坂冬の陣が待ち遠しいですね。

真田信繁(堺雅人)と茶々(竹内結子)が、どのように描かれるのか楽しみデス!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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