サン・フェリペ号事件~日本二十六聖人殉教、秀吉による信徒への弾圧

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サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件について。日本二十六聖人殉教事件は太閤・豊臣秀吉が唯一行ったキリスト教徒への直接的迫害である。豊臣秀次事件の直後に起きた事件であり、対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などが関係して複雑化している。日本二十六聖人殉教事件はサン・フェリペ号事件の直後に起きている。

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「サン・フェリペ号事件」「日本二十六聖人殉教」についての記事投稿です。

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サン・フェリペ号事件

サン・フェリペ号事件(サン・フェリペごうじけん)。1596年(文禄5年)、スペインのガレオン船であるサン・フェリペ号が土佐国に漂着。乗組員の発言が大問題となった事件。

太閤・豊臣秀吉によるキリスト教徒への弾圧(日本二十六聖人殉教)のきっかけとされる。

1587年(天正15年)、秀吉はバテレン追放令を発布した。バテレン追放令はキリスト教の布教の禁止だけであり、南蛮貿易を重視したため限定的なものではあった。

黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができ、キリスト教の信仰は禁止されなかった。よってキリシタンも迫害されたり、信仰を制限されたりすることはなかった。

サン・フェリペ号事件は、このような状況下で起こっている。

サン・フェリペ号に関する日本側資料は多い。一次資料として、「長宗我部元親記」「土佐物語」「甫庵太閤記」「天正事録」などがある。

スペイン側の資料は、サン・フェリペ号船長であるマティアス・デ・ランデーチョの航海日誌は没収されて現存しない。しかし後にランデーチョは「サン=フェリペ号遭難報告書」を書き、現在ではセビリアのインディアス古文書館に保管されている。

ほかフィリピン総督府記録はじめ、宣教師による記録などが多数存在している。

土佐へ漂着

1596年(文禄5年)7月、スペインのガレオン船であるサン・フェリペ号が、メキシコを目指しフィリピンのマニラを出航。

船長はマティアス・デ・ランデーチョ。船員以外に7名の司祭(フランシスコ会員のフェリペ・デ・ヘスース、ファン・ポーブレ、4名のアウグスティノ会員、1名のドミニコ会員)が乗り込んでいた。

サン・フェリペ号は東シナ海で台風に襲われ、甚大な被害を受けた。メインマストを切り倒し、400個の積荷を放棄している。

1596年(文禄5年)8月28日、サン・フェリペ号は四国・土佐沖に漂着。長宗我部元親の指示により浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁した。

大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれた。

奉行・増田長盛が浦戸に派遣

サン・フェリペ号側は船の修繕許可と身柄の保全を求めるため、秀吉に使者を差し向けている。秀吉との面会はかなわなかったが、奉行・増田長盛が浦戸に派遣された。

使者のファン・ポーブレは皆のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えている。

増田らは、船員全員の名簿と積荷の一覧を作成し、太閤の捺印をしている。船員たちは町内に幽閉、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。

増田は秀吉の書状を告げた。

「スペイン人たちは海賊であり、ペルー・メキシコ(ノビスパニア)・フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」

水先案内人(航海長)のデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語っている。

増田ら一行は、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。

征服計画

水先案内人(航海長)のデ・オランディアが以下のように語ったとされる。

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」

しかしこれは逸話であり、徳富蘇峰が大正〜戦前の昭和年間に記した近世日本国民史が初出である。

当時の史料である日本側の記録に、このようなやりとりがあったことは記述されていない。

当時の海事法

ルイス・フロイスはサン・フェリペ号事件の顛末を述べている。

「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため積荷が没収された」

長宗我部元親は鎌倉時代の廻船式目を発見し、秀吉の「海路諸法度」は、これが元になっている。

廻船式目では第一条で難破船の積荷の扱いについて述べていて、難破船に生存者がいない場合はその資産を漂着地の神社仏閣の造営費にあててもかまわないとしている。

「海路諸法度」では漂着船がでて積荷を入手したものがいても、船主から請求があった場合、ただちに積荷を返さなければならないと述べている。

日本二十六聖人殉教

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ことの経過は増田長盛により秀吉に報告された。

1596年(文禄5年)12月8日、天正に続き、キリシタン禁教令が再び発布。

京都・大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、日本人信徒20人が捕らえられ、長崎に送られた。

1596年(慶長元年)12月19日、26名が磔にされ処刑。いわゆる「日本二十六聖人殉教」である。

二十六聖人

二十六聖人記念碑の右側から順に列挙。

  • フランシスコ吉(きち)-日本人大工。
  • コスメ竹屋-日本人。
  • ペトロ助四郎(ペドロ助四郎)-日本人。
  • ミカエル小崎(ミゲル小崎)-日本人、トマス小崎の父。
  • ディエゴ喜斎(ヤコボ喜斎・市川喜佐衛門・備前屋喜左衛門)-日本人。

  • パウロ三木-日本人。
  • パウロ茨木-日本人、レオ烏丸の兄。
  • 五島のヨハネ草庵(ヨハネ五島)-日本人。
  • ルドビコ茨木-日本人、パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
  • 長崎のアントニオ-日本人、父は中国人、母は日本人。

  • ペトロ・バウチスタ(ペドロ・バプチスタ)-スペイン人、フランシスコ会司祭。
  • マルチノ・デ・ラ・アセンシオン-スペイン人、フランシスコ会司祭。
  • フェリペ・デ・ヘスス(フィリッポ・デ・ヘスス)-メキシコ人、フランシスコ会修道士。
  • ゴンザロ・ガルシア-ポルトガル人、フランシスコ会修道士。
  • フランシスコ・ブランコ-スペイン人、フランシスコ会司祭。
  • フランシスコ・デ・サン・ミゲル-スペイン人、フランシスコ会修道士。

  • マチアス-日本人、本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
  • レオ烏丸-日本人、パウロ茨木の弟、ルドビコ茨木のおじ。
  • ボナベントゥラ-日本人。
  • トマス小崎-日本人、ミカエル小崎の子。
  • ヨアキム榊原(ホアキン榊原)-日本人。

  • 医者のフランシスコ(フランシスコ医師)-日本人。
  • トマス談義者-日本人。
  • 絹屋のヨハネ-日本人。
  • ガブリエル-日本人。
  • パウロ鈴木-日本人。

二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達。

処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していたことが考えられる。

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日本二十六聖人殉教の経過

秀吉は、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考えた。

京都奉行・石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名を捕縛。

24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令は耳と鼻を削ぐ)、市中引き回しとなった。

長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工・フランシスコも捕縛。

26人の処刑は通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まる。キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだといわれる。

1596年(慶長元年)12月19日、26名が磔にされ処刑。外出禁止令が出されていたにも関わらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まったといわれる。

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日本二十六聖人殉教のその後

処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。

日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。

  • 1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。
  • 1962年、列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた。

カトリック教会における「日本二十六聖人殉教者」の祝日は2月5日。

26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性。

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教の影響

サン・フェリペ号の船長・マティアス・デ・ランデーチョは、秀吉に直接抗議するため都に上ったが、交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であった。

サン・フェリペ号は修繕され、マニラに帰った。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長・ランデーチョらは証人として喚問された。

その後、スペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン・フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、果たせなかった。

この事件には、秀吉の対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しいとされている。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

サン=フェリペ号事件 – Wikipedia

日本二十六聖人 – Wikipedia

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まとめ

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教は豊臣秀次事件の直後に起きている。

1978年放送「黄金の日日」の話ではあるが、この二つの事件をキッカケに納谷助左衛門(市川染五郎、現・松本幸四郎)と石川五右衛門(根津甚八)が太閤・豊臣秀吉(緒形拳)と完全に対立する。

この二つの事件、真田丸ではどのように描かれるのだろうか・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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