石田三成の関ヶ原敗戦後の逃走ルート・最期・逸話、大谷吉継の死

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大河ドラマ「真田丸」第37話「信之」で石田三成と大谷吉継の最期が回想シーンとして描かれるはずだ。はずだというのは第36話「勝負」で関ヶ原の戦いは「超高速関ヶ原」として描かれてしまったからである。二人の記事は、以前に書いているが、最期というテーマで書きたいと思う。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

管理人は治部殿・刑部殿が好きだ!前述してるが、テーマは二人の「最期」。ほか逸話なども・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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石田治部と関ヶ原の戦い

石田三成の関ヶ原敗戦後の逃走ルート・最期・逸話、大谷吉継の死,画像01

関ヶ原の戦い本戦の前日から。

  • 1600年(慶長5年)9月14日、思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取る。
  • 1600年(慶長5年)9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦い。

三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなった。

石田三成は笹尾山に陣取る。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

当初は西軍優勢であった。石田隊は6,900人であったが、黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度となく攻め立てられた。

細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。

が、西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

※伊吹山は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)標高1,377mの山。

島左近(清興)。三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕える
島左近(清興)といえば、三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕えたことで有名である。俸禄・2万石は破格の待遇だ。三成が佐和山19万石になる前に仕えている説が有力。関ヶ原の戦いで討ち死にしたと伝わるが、遺体は見つかっていない。そしてのちも生きたとの伝承もある・・・。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

石田三成の逃走ルート

石田三成の関ヶ原敗戦後の逃走ルート・最期・逸話、大谷吉継の死,画像02

石田三成の逃走ルートと捕縛場所は諸説あり解明されていない。

三成が逃れた伊吹山から、

  • 相川山→春日村→新穂峠(滋賀県と岐阜県の県境にある峠)→
  • 姉川(滋賀県北部を流れる淀川水系の一級河川)→曲谷(滋賀県米原市)→
  • 七廻り峠(滋賀県長浜市鍛冶屋町)→草野谷(滋賀県長浜市草野)→
  • 高時川(滋賀県長浜市を流れる淀川水系の河川、姉川の支流)の上流→古橋(滋賀県長浜市木之本町古橋)

に逃れたとされる。

※春日村(かすがむら)は、岐阜県揖斐郡にあった村。現在は、揖斐郡の6町村と合併し揖斐川町。

  • 1600年(慶長5年)9月18日、居城・佐和山城が落城。
  • 1600年(慶長5年)9月21日、田中吉政の追捕隊により捕縛。
  • 1600年(慶長5年)9月22日、大津城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見。

石田三成の最期

石田三成の最期について。

  • 1600年(慶長5年)9月27日、大坂に護送。
  • 1600年(慶長5年)9月29日、京都に護送。奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
  • 1600年(慶長5年)10月1日、六条河原で斬首。享年41。

辞世は、

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

合掌・・・。

墓所・戒名

石田三成の墓所と戒名。

墓所は、

  • 大徳寺三玄院
  • 高野山奥の院
  • 滋賀県彦根市佐和山遊園内

戒名は「江東院正軸因公大禅定門」

過敏性腸症候群

最近、石田三成は過敏性腸症候群だったんではないかと言われている。

過敏性腸症候群(かびんせいちょうしょうこうぐん、英語:Irritable Bowel Syndrome、略称:IBS)は、主として大腸の運動および分泌機能の異常で起こる病気の総称。20~40歳代に多く、ストレスの多い先進国に多い病気である。

そういわれれば、大河ドラマ「真田丸」では、この説を取り入れているのか、山本耕史演じる治部殿は、重要な場面になると腹痛を起こしている。

治部殿の子孫の石田家男子は、みな腹が弱く「三成腹」と呼んでいるなんて報道も見たことがあります。

一つの説と捉えれば、大変興味深い話である。

石田三成の逸話

特に石田三成の最期にまつわる逸話を紹介する。

オトチ岩窟

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関ヶ原の戦いで敗走した三成は逃走を続ける。最終的には、領地・近江国(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。

初めは三珠院を頼る。住職の善説より「何を所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答え、善説を呆れかつ恐れさせたとされる。

のち与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。

与次郎は徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱。

三成は義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばぬよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。

「田中系図」によれば、

徳川軍を代表して三成捜索は、田中吉政が担当した。

吉政は近辺の村々に対し、

  • 三成を生け捕りにした場合には、その村の年貢を永久に免除。
  • 生け捕りにせず殺した場合には、その者に賞金百両を与える。
  • 三成を匿った場合には、当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑。

という触れを出してた。

最終的に与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。

捕縛された三成の姿は、樵(きこり)の振りをして身には襤褸(ぼろ)をまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠にて顔を隠していたとされる。

田中吉政の兵には、三成の顔を知っている者がいたため看破された。

ここまでが、「田中系図」による。

与次郎が死を覚悟で三成を匿った理由としては、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。

他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成を匿った。

しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。

これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたといわれる。

家康の小袖

「常山紀談」「武功雑記」から。

処刑前、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えられた。

行長と恵瓊は小袖を受け取る。

三成「この小袖は誰からのものか」

「江戸の上様(家康)からだ」と言われる。

三成「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」

と言って受け取らなかったといわれる。

やはり「常山紀談」から。

家康が処刑前の三成に会った際、

「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」といった。

家康も「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。

三成と干柿

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これは有名な逸話です。

真田増誉「明良洪範」、「茗話記」から。

三成は京都の町を引廻されている最中に、のどが渇いてお湯が飲みたくなった。警護の者に伝えたところ、お湯がなかったので「干柿」を差出された。

三成は痰(たん)の毒であるから食べないと言って断った。

間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしいと笑れたが、三成は大義を思うものは、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからであると言った。

「武功雑記」から。

三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城で曝(さら)された。

このとき福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤。

三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放ったとされる。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

大谷刑部と関ヶ原の戦い

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関ヶ原の戦い本戦を中心に。

  • 1600年(慶長5年)9月、大谷吉継は脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出。
  • 1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦い。関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣。

午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦。

大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。

大谷刑部の最期

正午頃、松尾山の小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃。小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃。

大谷軍も善戦するが、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。

これが決定的で大谷隊は壊滅。大谷吉継は自害。享年42。

自害する際、小早川秀秋の陣に向かって

「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」

と言って切腹。

この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に謎の死をとげている。

吉継の首は側近である湯浅五助(隆貞)により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。

異説としては吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。

三浦喜太夫は追腹を切り、湯浅五助は藤堂隊に駆け行って討ち死。

辞世は

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

平塚為広の辞世

「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」

への返句だ。

合掌・・・。

大谷吉継の墓所・戒名

大谷吉継の墓所と戒名。

墓所は、

  • 福井県敦賀町永賞寺
  • 岐阜県関ケ原町
  • 滋賀県米原市(首塚)

戒名は「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」

大谷吉継の逸話

大谷吉継の逸話を紹介する。

刑部と家康

刑部殿は、関ヶ原では治部殿との友情に殉じたとされる。しかし徳川家康とも親しく、当初は家康派だったと目されている。

1600年(慶長5年)7月、会津征伐が終わり次第、12万石に加増することを約束したとも言われる。家康は吉継の才能を高く評価していた。

よって吉継が西軍に味方したことを知った家康は、非常に狼狽したという逸話がある。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

刑部と治部

関ヶ原の挙兵の直前、吉継は三成の横柄さを憂慮した。

「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」

と諫言。

本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。

宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

他にも、

「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」

と忠告している。

義に厚い名将・大谷刑部少輔吉継

吉継は、関ヶ原における壮烈な活躍により「義に厚い名将」として名を広く残した。

西軍は「日和見」「裏切り」が相次いだのに対し、吉継とその軍のみは寡兵ながらも最後まで奮戦して吉継は自害。

同時代の神龍院梵舜も吉継の死に感銘を受けたためか、小早川秀秋の裏切りとともに吉継が自害するまでの記録を「梵舜日記」に詳細に書き記している。

「士卒皆其恵に懐き、敢て離反する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり」

とあるように、大谷軍は一人も戦線から離脱せずに吉継の指揮に従って勇猛に戦ったという。

吉継顕彰碑

関ヶ原にある「吉継顕彰碑」から。

「大谷吉隆は若年の頃より豊臣秀吉に仕え重用せられて越前敦賀の城主となる慶長5年関ヶ原役起るや石田三成の切なる勧誘に遭ひ之を阻止すれども聴かれず意を決して西軍に党し九月十五日此の宮に陣し攻戦大に努む然れども衆寡敵せず遂に自刃して逝けり吉隆人となり聡頴にして智勇兼備へ三成と共に秀吉を輔けて功あり其の蕨然として起ちしは一に主家の恩に酬ひ三成との義を重んぜしに因る固より成敗の跡を慮れるにあらさるなり而して盲目の身を以て悲壮なる最後を遂げ寡に武士道の亀鑑として永く名を青史に垂るる者と謂ふべきなり」

「吉継顕彰碑」より

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

石田三成 – Wikipedia

大谷吉継 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

最近感じるのは、治部殿って、今ブームなんだろうか?

2017年もV6・岡田准一が映画「関ヶ原」で石田三成を演じる。

管理人の幼少期には、石田三成って言えば、敗軍の将として片付けられることが多かった。

まあ大勢の人に治部殿が良いイメージで捉えられるのはいいことなのだが・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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