大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る

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この記事の所要時間: 1255(文字数:7,751文字)

大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

近年、大谷吉継公の人気凄いですね。歴史好きな女性(いわゆる歴女)から支持されてるようです。義の人・大谷刑部少輔吉継についての記事投稿です。

それではいってみよう!

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大谷吉継

大谷吉継(おおたによしつぐ)。1559年(永禄2年)(1565年説もある)~1600年(慶長5年)9月15日。父は大谷吉房(大谷盛治とも)。母は東殿。近江国(滋賀県)で生まれ。

幼名は桂松。別名は吉隆。通称は紀之介、平馬、大谷刑部。号は白頭。豊臣家臣。越前・敦賀城主。従五位下・刑部少輔。召料は敦賀正宗(相州正宗の作)。

兄弟は妹・こや(小屋)(北政所侍女、御倉番)、下間頼亮室。子は吉治(吉勝)、木下頼継、泰重、竹林院(真田信繁室)。

墓所は福井県敦賀町永賞寺、岐阜県関ケ原町、滋賀県米原市(首塚)。戒名は渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門。

業病を患い晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言われる。

秀吉の子飼い~清州会議

清州会議までを簡単にまとめた。

天正始め頃、秀吉の小姓となる。

  • 1577年(天正5年)10月、秀吉の播磨攻略。脇坂安治、一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆。大谷平馬。
  • 1578年(天正6年)5月4日、上月城・尼子勝久が毛利輝元の軍勢に包囲。尼子軍救援に従軍。
  • 1578年(天正6年)、三木城攻めには馬廻として従軍。
  • 1578年(天正6年)10月15日、平井山で開かれた秀吉陣中での宴に参加。禄は150石とも250石ともいわれる。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

  • 1582年(天正10年)4月27日、備中高松城攻。馬廻りとして従軍。
  • 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。
  • 1582年(天正10年)6月13日、山崎の戦い。
  • 1582年(天正10年)6月27日、清州会議。

大谷刑部という人、いまいちハッキリとした資料がないようです。

清州会議。羽柴秀吉と柴田勝家の命運を分けた織田家宿老会議
清州会議によって羽柴秀吉と柴田勝家の立場は逆転した。逆臣・惟任(明智)日向守光秀を秀吉が討ったことが大きいのだろう。筆頭家老・勝家の影響力は低下し、秀吉が重臣筆頭の地位を確立して、織田家の勢力図は大きく変化した。勝家は秀吉によって滅ぼされ、天下取りへの道を駆け上がった。織田家の後継者決定、領地再分配を目的とした会議。

羽柴(豊臣)秀吉の家臣

吉継は賤ヶ岳の戦いの前哨戦である秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍した。

  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。長浜城主・柴田勝豊を調略。先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。
  • 1585年(天正13年)、紀州征伐。増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行。
  • 1585年(天正13年)7月11日、秀吉は関白叙任に諸大夫12名を置いた。従五位下・刑部少輔に叙任。「源姓」を名乗った説がある。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更。
  • 1585年(天正13年)9月、秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行。
  • 1586年(天正14年)、九州征伐。兵站奉行・石田三成の下、功績を立てる。

羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!
羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に
小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。
長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。

  • 1586年(天正14年)、堺奉行・石田三成の下、実務担当。
  • 1588年(天正16年)、毛利輝元上洛の際、接待をする。奉行格に列していた。
  • 1589年(天正17年)、越前国・敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐。三成とともに忍城の戦いに参戦。奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当。
  • 1590年(天正18年)末、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6944石を加増され「敦賀5万石」となる。

のぼうの城、石田三成が落とせなかった行田市忍城と成田氏
映画「のぼうの城」を見る機会があったので、行田市忍城について調べました。おもに成田氏と忍城の戦いについての記事投稿をします。忍城の戦いは日本三大水攻めの一つに数えられる。石田三成が落城させることができなかったあの戦いである。つけくわえるならば豊臣秀吉の小田原攻めの最中の戦いである。忍城を治めていたのが成田氏です。

  • 1592年(文禄元年)、文禄の役。船奉行・軍監。
  • 1592年(文禄元年)6月、奉行衆の一人として朝鮮諸将の指導、現地報告。明との和平交渉のため明使(謝用梓・徐一貫)伴って石田三成・増田長盛と共に一時帰国し。
  • 1593年(文禄2年)5月23日、名護屋城で秀吉と明使との面会をとりはからう。
  • 1593年(文禄2年)6月、晋州城攻防戦。
  • 1593年(文禄2年)閏9月上旬、帰国。
  • 1593年(文禄2年)9月吉日、鶴亀文懸鏡を大宰府天満宮に寄進。

  • 1597年(慶長2年)9月24日、秀吉が徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸を訪問。
  • 1598年(慶長3年)6月16日、豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列。
  • 1599年(慶長4年)、神龍院梵舜と女能を見物。

大宰府天満宮に寄進した鶴亀文懸鏡の銘に吉継の家族名が列挙されており、「東・小石・徳・小屋」のうち、徳と小屋が吉継の娘であることから、真田信繁の正室・竹林院の実名は「徳」か「小屋」のいずれかであることがわかる。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
織田有楽斎(長益)。有楽流を創始、利休十哲の一人。有楽町との関係?
織田長益(有楽斎)。織田信秀の十一男。兄・信長とは年齢が13歳離れている。長益系織田家嫡流初代。「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。

関ヶ原の戦い

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1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去。吉継は五大老の徳川家康に接近。

  • 1599年(慶長4年)、前田利家による徳川邸襲撃の風聞が立った際、福島正則ら武断派諸将らと共に徳川家康を警護。
  • 1599年(慶長4年)、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、石田三成の内衆と共に越前表に出兵。
  • 1599年(慶長4年)、宇喜多家中の紛争の調停。
  • 1600年(慶長5年)7月、上杉会津征伐。討伐軍に参加する途中で三成の居城である佐和山城に立ち寄る。

三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられた。

吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得。しかし三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながら一族をあげて三成に味方した。

吉継の母・東殿局は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している。

東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略。丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功。

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。
徳川家康暗殺疑惑事件。家康と正信の謀略と言われ、前田家を封じる
豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下への野望を隠さなかった。1599年(慶長4年)には石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件が起きている。今回は徳川家康暗殺疑惑事件を取り上げる。2つの事件に共通しているのは、徳川家康の存在が大きくなったことだ。徳川家康暗殺疑惑事件は家康と本多正信の謀略とも言われている。
前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る
前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。

  • 1600年(慶長5年)8月、浅井畷の戦い。
  • 1600年(慶長5年)9月、吉継は脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出。
  • 1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦い。関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣。

午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦。

正午頃、松尾山の小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃。小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃。

大谷軍も善戦するが、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。

これが決定的で大谷隊は壊滅。大谷吉継は自害。享年42。

自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に謎の死をとげている。

吉継の首は側近である湯浅五助(隆貞)により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。

異説としては吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。

三浦喜太夫は追腹を切り、湯浅五助は藤堂隊に駆け行って討ち死。

辞世は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句だ。

この死に様が皆の心をつかむのだろう・・・。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。
石田三成の関ヶ原敗戦後の逃走ルート・最期・逸話、大谷吉継の死
大河ドラマ「真田丸」第37話「信之」で石田三成と大谷吉継の最期が回想シーンとして描かれるはずだ。はずだというのは第36話「勝負」で関ヶ原の戦いは「超高速関ヶ原」として描かれてしまったからである。二人の記事は、以前に書いているが、最期というテーマで書きたいと思う。

秀吉の隠し子

五七桐,画像

母・東殿は高台院の侍女であり、秀吉家中で重責を担っていた。

よって秀吉の「隠し子」とする説もある。吉継の名が「秀吉を継ぐ」なんていわれている。

本当のことは分からないが、好きな話だ!

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

大谷吉継の子孫

子・大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人。

  • 1614年(慶長19年)、大坂冬の陣。義兄弟・真田信繁らとともに大坂城へ入城。
  • 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。福井藩主・松平忠直の軍勢と戦い討死。

子孫は帰農したが、後に直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続。

三男・泰重の子で吉継の孫にあたる大谷重政は越前松平家に仕官し、その子孫は福井藩家老の家格に列した。老中・土井利勝らは「家康公が知ったら喜んだだろう」と言ったという。

会津戦争に際して白虎隊士中2番隊の隊員で飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は吉継の子孫と言われる。

娘は真田信繁の正室

大谷吉継の娘(妹、姪を養女としたという説もある)は真田信繁の正室であるというが信頼できる史料は無い。

吉継の娘の名前は史料では確認されておらず、死後の法名・竹林院という号しかわかっていない。

関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り大坂の役で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。

1649年(慶安2年)に死去。信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが子とされている。

竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘
竹林姫(竹林院)。真田信繁(幸村)の正室、大谷刑部少輔吉継の娘。信繁(幸村)とは真田幸昌(大助)、片倉守信、あぐり(蒲生郷喜室)、菖蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)をもうける。関ヶ原の戦い後、幽閉された九度山での生活は厳しく、生活を支えるために真田紐を考案したとされる。現状では信頼できる資料が少なすぎる。
真田丸、真田信繁(幸村)と六文銭
2016年1月10日から放映される大河ドラマ「真田丸」を見るにあったて、真田信繁(幸村)を調べてみた。近年ゲームキャラクターとしての真田幸村は凄まじい人気です。「真田十勇士」などの人気も手伝ってキャラクターが実際の真田幸村を超越してるように思われます。こんなこというと夢を壊すようですが。。

千人斬り

1585年(天正13年)11月27日、28日頃から大坂で「千人斬り」という辻斬り騒動があった。犯人として大谷吉継の名前が噂された。

  • 1586年(天正14年)2月21日、秀吉の耳に届き、報告を怠った奉行を「追篭」。黄金10枚(100両)の懸賞金の高札をたてた。
  • 1586年(天正14年)2月27、28日頃、辻斬り騒動の下手人の目星がつく。
  • 1586年(天正14年)3月3日、千人斬りの下手人として大名衆の子息数名を捕らえる。(下手人の一人は宇喜多次郎九郎)
  • 1586年(天正14年)3月3日~8日、大坂で処刑。

この事件の後も秀吉は吉継を変わらず重用。

一説に吉継の側近としての台頭を妬む一派の仕業ともいわれるが、秀吉・吉継主従の絆の強さを示すものである。

徳川家康との関わり

大谷吉継は石田三成と違い徳川家康を敵視しておらず親しかったと言われている。

1589年(天正17年)11月、小田原征伐を決めた秀吉は家康の出方を探るため、吉継を派遣し交渉させている。吉継は家康の実力と器量を認める。

1590年(天正18年)3月19日、小田原征伐途中、秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき石田三成は反対した。が吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという。

1600年(慶長5年)7月、会津征伐が終わり次第、12万石に加増することを約束したとも言われる。吉継が西軍に与したことを知った家康は非常に狼狽したという逸話がある。

大谷吉継・徳川家康は互いに人物を認めていた。家康を認めていながら、石田三成に味方した形部という男・・・。

石田三成との関係

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行筆頭~関ヶ原の戦い,アイキャッチ画像

大谷刑部と石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在する。

大谷刑部・石田三成といえばこれを書かなければなるまい。

1587年(天正15年)、大坂城で茶会が開かれた。招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。

吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであった。

三成だけ普段と変わりなく茶を飲み干したといわれている。

一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる。

茶会での出来事に吉継は、いたく感動したと言われる。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

真田丸では片岡愛之助が演じる

大河ドラマ「真田丸」では大谷吉継を片岡愛之助が演じている(笑)。

イメージじゃないですね。色んな意味で話題性がありすぎます。

管理人の中で義の人・大谷吉継と片岡愛之助が一致しません。

少しだけ期待してるんですが・・・。

第37話「信之」

第37話「信之」では刑部殿(片岡愛之助)の最期が描かれている。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

「真田丸」第37話「信之」感想。三成ロスと刑部ロス~九度山流罪
安房守と左衛門佐の処遇は九度山流罪。真田伊豆守と本多忠勝の尽力により死罪だけは免れた。そして真田家は伊豆守を当主として残る。上田の領地も伊豆守が治める。犬伏の別れは、無駄ではなかった・・・。とにもかくにも真田家は残る。そして大坂城にて左衛門佐は、治部殿と刑部殿の最期を聞かされる・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

大谷吉継 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

大谷刑部というと関ヶ原の戦いでの最期があるので、なんか悲しくなってしまいます。

「真田丸」で大谷刑部を演じる片岡愛之助を冷静に見ていきたいと思います。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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