初(常高院)。大坂冬の陣では阿茶局と和議をまとめる、京極高次の正室

初(常高院)。大坂冬の陣では阿茶局と和議をまとめる、京極高次の正室,アイキャッチ画像
この記事の所要時間: 556(文字数:3,560文字)

初(常高院)といえば、大坂冬の陣で阿茶局と和議をまとめることだろう。浅井三姉妹の一人。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)。妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。本名は浅井初(あざいはつ)。一般に「初」の呼び名で知られる。京極高次の正室。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

勉強不足なのか、初(常高院)がキリシタンであったイメージはまったくなかった・・・。

それではいってみよう!

スポンサーリンク

常高院(初)

常高院(じょうこういん)。1570年(永禄13年)?~1633年(寛永10年)8月27日。父は浅井長政。母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。

本名は浅井初(あざいはつ)。一般に「初」の呼び名で知られる。「浅井三姉妹」の一人。京極高次の正室。

幼名は御鐺(おなべ)、於那。

姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)。妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。兄に万福丸、異母弟に万菊丸。

夫・高次との間に子はなかった。

おもな養女

  • 妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)
  • 氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)

血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わった。

養女・初姫と忠高を娶わせるが、この両者にも子はできなかった。

戒名は常高院殿松嚴永昌大姉。

淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。
江(崇源院)。浅井三姉妹の末っ子、徳川秀忠の正室。位階は従一位
浅井三姉妹の末っ子で、徳川秀忠の正室・江(崇源院)。淀殿の妹ということもあり、きつい性格な人物であると思っていた。やはり小説・ドラマの影響からか間違って伝わっている部分が多い。調べてみるもんです。それと徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけということにはびっくりした。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

清洲会議~北ノ庄城落城

近江国小谷城に生まれる。

1573年(天正元年)、父・長政は伯父・織田信長と交戦。小谷城は父・長政と祖父・久政の自害により落城。

「渓心院文」によれば、母・市ら三姉妹は藤掛永勝により救出。以後は伯父・織田信包の下で庇護を受けたとも、尾張国守山城主で信長の叔父・織田信次に預けられたともいわれている。

  • 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。信長が家臣・明智光秀に討たれる。
  • 1582年(天正10年)6月27日、清洲会議。母・市は織田家の家臣・柴田勝家と再婚。娘達とともに越前国北ノ庄城へ移る。
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。勝家は羽柴秀吉に敗れ、母・市とともに自害。

清州会議。羽柴秀吉と柴田勝家の命運を分けた織田家宿老会議
清州会議によって羽柴秀吉と柴田勝家の立場は逆転した。逆臣・惟任(明智)日向守光秀を秀吉が討ったことが大きいのだろう。筆頭家老・勝家の影響力は低下し、秀吉が重臣筆頭の地位を確立して、織田家の勢力図は大きく変化した。勝家は秀吉によって滅ぼされ、天下取りへの道を駆け上がった。織田家の後継者決定、領地再分配を目的とした会議。
羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!

三姉妹は秀吉の庇護を受けるとされるが、

「玉興記」によれば、三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させた。

のちは秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている。

最近は、こちらの説が有力のようである。

京極高次の正室

初(常高院)。大坂冬の陣では阿茶局と和議をまとめる、京極高次の正室,画像01

その後の常高院(初)について。

  • 1587年(天正15年)、秀吉の計らいにより、京極家の当主であり従兄・京極高次と結婚。
  • 1600年(慶長5年)、大津城の戦い。京極高次は石田三成側に就くと思わせ、関ヶ原の戦いで大津城に籠城して東軍に転じる。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

京極家は浅井家の主筋にあたる。

結戦前に開城したものの、西軍を足止めした功績で京極高次は若狭一国(若狭小浜8万5000石)を与えられる。

  • 1609年(慶長14年)、夫・高次と死別。剃髪・出家して「常高院」と号す。
  • 1614年(慶長19年)、大坂冬の陣。徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ、両家の和議に尽力。

豊臣家と徳川家の対立が露呈すると、豊臣方の使者として仲介に奔走した。

阿茶局(雲光院)。家康の側室、大坂冬の陣の和議に尽力。一位局
家康の側室である阿茶局(雲光院)。徳川家康との間に子はなさなかったが、才知に長け、奥向きの諸事一切を家康より任されている。子は神尾守世・神尾守繁、養子として神尾元勝・高源院 (鍋島勝茂正室)。大坂冬の陣では常高院・大蔵卿局と会見して和議成立に尽力している。後水尾天皇より従一位を賜り、一位局・一位尼と称される。

  • 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。秀頼の娘・天秀尼の助命を家康に嘆願したとも言われている。
  • 1633年(寛永10年)、京極忠高の江戸屋敷(現・東京都港区虎ノ門)で死去。享年64。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。

常高院の逸話

松江歴史館学芸員・西島太郎が、「高島町史」編纂の過程で発見された高次の書状や「磯野家由緒書」を調べた結果として、2011年に同館の研究要綱で発表。

  • 1593年(文禄2年)、京極高次の侍女・於崎が忠高を懐妊。初(常高院)は嫉妬し殺害を企てた。
  • 1595年(文禄4年)、高次の家臣・磯野信高は忠高を預かって浪人となり、幼い忠高を約二年間かくまった。

常高寺

初(常高院)の墓所は若狭(福井県小浜市)の常高寺。

常高寺は後瀬山山麓にあり、後瀬山山頂にはかつて後瀬山城があった。後瀬山城は京極高次が徳川家康より若狭一国を拝領した時、初めに入った城。

常高院は

「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおいて下さい」

と遺言に残している。

1634年(寛永11年)、常高院没後の翌年、京極氏は出雲松江藩に国替え。

常高院の墓所である常高寺は若狭に残された(京極高次の供養等は京極家の国替えの際に出雲に移された)。

以後、京極家が出雲、播磨、讃岐へと国替えになっても、その庇護を受け続けた。

常高寺には侍女であった桂久院十一世恵林尼(小少将局)・光雲院九世義裕尼(たき)・節心院十一世智栄尼(しん)・昭陽院・法心院・清涼院・盛春院らの墓も残っている。

大河ドラマ「真田丸」では「はいだしょうこ」が演じる

京極高次の正室・初を「はいだしょうこ」が演じる。

大河ドラマの初を演じた人物は、

  • 1989年「春日局」-宮沢りえ・松原智恵子
  • 2000年「葵 徳川三代」-波乃久里子
  • 2011年「江〜姫たちの戦国〜」-水川あさみ

である。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

常高院 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

初(常高院)といえば、大坂冬の陣では阿茶局と和議をまとめたくらいしか知らなかった。

一時的なのかわからないが、切支丹(キリスト教徒)に改宗しているようです。浅井長政の姉で、京極高次の母である京極マリアの影響でしょうか・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

スポンサーリンク

フォローする(Push7もあります)

コメントの入力は終了しました。