古河公方館。古河御所・鴻巣御所とも呼ばれ、大半は古河総合公園

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古河公方館は鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれ、「古河御所」と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。北西1kmあたりに「古河城本丸跡」が位置するだけに、古河城とあわせて一つの広大な城域を形成していた等の見方も示されている。最後の古河公方・足利義氏の娘である氏姫の居館となった。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

茨城県古河市鴻巣の「古河公方館跡」について記事投稿してみたいと思います。

それではいってみよう!

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古河公方館を訪ねて

古河公方館。古河御所・鴻巣御所とも呼ばれ、大半は古河総合公園,画像01

茨城県古河市鴻巣の「古河公方館跡」に行ってきました!

古河公方館は鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれ、「古河御所」と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。

同敷地内には、明治初期に廃寺となった徳源院跡地もある。

古河公方館の概要

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古河公方館(こがくぼうやかた)は古河城本丸から南東へ1km程度離れた古河市鴻巣にあり、御所沼に突き出た半島状台地に築かれた連郭式の中世城館。

  • 1455年(享徳4年)、享徳の乱のおり、初代古河公方・足利成氏により築かれたと考えられている。
  • 1590年(天正18年)、最後の古河公方・足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。
  • 1630年(寛永7年)、氏姫の孫・尊信が下野国の喜連川に移ったのちは主を失い、時宗十念寺の寺域となる。

主な城主は足利成氏、氏姫。廃城年は1630年(寛永7年)。遺構は堀、土塁。

古河公方館の歴史

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「鎌倉大草紙」享徳四年(1455年)六月の条に

「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立、……」

とある。

このことから享徳の乱において鎌倉から下総・古河に移座した初代古河公方・足利成氏により築かれたと考えられている。

長禄元年十月には

「下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」

とあるので、成氏は2年間程度本館を御所としたのち、立崎の古河城へ移ったことになる。

これ以降、氏姫の時代まで史料が乏しい。当時は舟で往来可能だった古河城とあわせて、一つの広大な城域を形成していた等の見方も示されている。

氏姫の父・足利義氏は、葛西城・関宿城・小金城・佐貫城・鎌倉への移座を重ねた。

関宿城。北条氏康が「一国に等しい城」と重要視、関宿合戦
関東に在住する管理人は関宿城に行ったことがなかった。関宿城は北条氏康が「一国に等しい城」と重要視し、関宿合戦の舞台にもなっている。なるほど江戸川沿いにあり、利根川水系の要地であり、関東の水運を抑える拠点であったのがわかる。室町時代に築城され、関宿合戦で後北条氏に敗れるまでは古河公方家臣・関宿簗田家の居城であった。

1569年(永禄12年)、義氏が古河帰座。本館を御所としたとする見解もあるが、根拠となった史料は異なる解釈も可能なあいまいなもので、検討の余地があるようだ。

  • 1582年(天正10年)、足利義氏が死去。古河公方の後継者が定まらず、「氏姫」が古河足利氏を継承。
  • 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の「古河城破却」(立ち退きの意か)令により、氏姫は古河城から本館に移る。
  • 1591年(天正19年)3月、秀吉は氏姫に対して、足利頼純の子・国朝との縁組を指示。

氏姫の古河公方継承については賛否両論あるようだ。

頼純は、かつて古河公方と対立してきた小弓公方(おゆみくぼう)・足利義明の子である。1535年(天文4年)、国府台合戦で小弓公方が滅亡。のち安房国の里見氏に庇護されていた。

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この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は再び統一され、下野・喜連川の「喜連川氏」として江戸時代へ継承。

  • 1593年(文禄2年)、国朝が病死。引き続き弟・頼氏と氏姫との婚姻が成立。二人の間に義親が生まれた。
  • 1620年(元和6年)、氏姫が本館で死去。氏姫は古河を離れず義親夫妻とその子の尊信とともに暮らしていた。
  • 1627年(寛永4年)、義親が死去。
  • 1630年(寛永7年)、喜連川にいた祖父・頼氏が死去。後を継ぐために尊信が古河を離れた。

残された本館は時宗十念寺の寺域となる。

古河公方館の遺構

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1曲輪(根城)の東側には、現在も明瞭な堀切と土塁の跡がある。北側にも高さ約1.5mの土塁跡が15m程度、先端の西側にも若干の土塁跡がある。

1曲輪は、本丸に相当すると考えられている。現在は「公方様の森」と呼ばれる一角である。

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2曲輪(中城)の東側には、堀切と土塁の痕跡が一部に残されている。外郭(宿)の遺構は不明確だが、地形から東側が堀切られていたと考えられる。

2曲輪には、昭和5年まで十念寺があった。現在は民家園(旧飛田家住宅、旧中山家住宅)がある。

御所沼は、第二次世界大戦後に干拓・埋立されて消滅した後、1996年(平成8年)に復現された。古河公方の時代と比較すると、大幅に縮小されているが、当時の姿を偲ぶことができる。

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画像は移築された旧飛田家住宅。古河公方館址の碑の近くです。

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画像は移築された旧中山家住宅。旧飛田家住宅と並んでいます。

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画像は旧飛田家住宅・旧中山家住宅の前にある茶畑。

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自信はないが、画像は遺構とされる土塁・堀ではないかと思っている・・・。

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画像は駐車場前にある「鴻巣の一本榎」。

徳源院

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徳源院(とくげんいん)は、茨城県古河市鴻巣にあった臨済宗の寺院。鎌倉・円覚寺の末寺。山号を興王山、院号を徳源院。

明治初期に廃寺。現在は古河総合公園の中に跡地が残されている。古河公方ゆかりの寺院。

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古河公方・足利義氏墓所。

古河総合公園の桃林に囲まれた一角に徳源院跡があり、大小2つの石塔が残されている。

大きな方が氏姫の子・足利義親。石囲いがある小さな方は氏姫。奥の大きな木は土塚となっていて古河公方・足利義氏の遺骸の一部が埋葬されているらしい。

茨城県指定文化財(史跡)となっている。

天神松と胞衣松

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画像は天神橋を渡ってからの胞衣松・天神松。

古河公方館(御所)があった半島状台地の西端には、現在、天神橋と名付けられた橋があり、その両脇には赤松の木が植えられている。橋の南側が「天神松」(てんじんまつ)、北側が「胞衣松」(えなまつ)である。

館の主だった氏姫が足利義親を出産した際、足利の血を継ぐ男子誕生を喜び、御所の西北に天神のほこらを建てた。またその南側には胞衣(胎盤)を埋めて、それぞれに松の木を植えたと言い伝わる。

なお子の健やかな成長を願って胎盤を埋める風習は、近年まで日本各地で見られていた。このときの松を人々は「天神松」、「胞衣松」と呼んだ。

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200年後に鷹見泉石が作成した鴻巣村絵図にも、天神松と胞衣松が描かれており、長い間大切にされてきたことが分かる。

2本の松は公園の造成が始まった1972年には残っていなかったが、故事にちなみ1996年に新しく植えられた。

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画像は御所沼と胞衣松・天神松。

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画像は筑波見の丘から撮影した天神橋と胞衣松・天神松。

古河公方館の所在地および交通アクセス

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古河公方館の所在地および交通アクセスについて。

  • 住所:茨城県古河市鴻巣399-1
  • TEL:0280-47-1129

ポケモンGO

管理人が車を駐車場に停めて、目に飛び込んできた光景は、沢山の人がスマホを持ってウロウロしている光景だった。

それもものすごい人数であった。ニュース番組などで見る光景、そのもの!おそらく「ポケモンGO」だろう。

管理人は「ポケモンGO」はやらないのだが、皆さんには気をつけてプレイしてくださいと願うばかりである。

ところどころ池などもあり、くれぐれも注意してもらいたい。

やっぱり「ポケモンGO」は凄いなと感嘆する管理人であった(笑)。

古河公方館。古河御所・鴻巣御所とも呼ばれ、大半は古河総合公園,画像0111

「ポケモンGO」をやってる人少なくなってました(笑)。

みなさん飽きたのだろうか、以前に訪れた時には相当数のプレイヤーがいたはずだが・・・。

古河城跡・古河城本丸跡

古河城跡・古河城本丸跡。周辺には鷹見泉石記念館・永井路子旧宅も,画像07

古河公方館から北西1kmあたりに古河城本丸、すこし離れたところに古河城出城諏訪曲輪跡(現在の古河歴史博物館)がある。

現在の古河城本丸後は、ちょうど渡良瀬川の土手に位置します。ちょっと場所がわかりにくいのですが・・・。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

古河城跡・古河城本丸跡。周辺には鷹見泉石記念館・永井路子旧宅も
古河城は室町時代には「古河御陣」とも呼ばれ、古河公方の本拠となった時期には古河御所(こがごしょ)とも呼ばれた。江戸時代は譜代中の譜代大名が治め、幕府の要職を歴任し、大老・老中を輩出している。明治以降、珍しく城は徹底的に破壊されている。「古河城本丸跡」は大きな目印としては標柱が立っているだけである・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

古河公方館 – Wikipedia

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まとめ

「古河城本丸跡」を含むと、それこそ広大な敷地となる。古河城とあわせて一つの広大な城域を形成していた等の見方が本当ならば、古河公方の力がうかがえる。

肝心な堀・土塁の写真がないので、もう一度行きたいと思う。

また楽しみが増えました(笑)。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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