豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?

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秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

豊臣家の公達・豊臣秀頼を調べてみた。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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豊臣秀頼

豊臣秀頼(とよとみのひでより/とよとみひでより)。1593年(文禄2年)8月3日~1615年(慶長20年)5月8日。父は豊臣秀吉。母は淀殿(浅井長政の長女)。

幼名は拾丸。名は豊臣秀頼、藤吉郎。兄弟は石松丸、鶴松。

正室は千姫(徳川秀忠の娘)。側室は和期の方(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘)。

子は国松、天秀尼、時国時広?、求厭。

乳母は宮内卿局・右京大夫局(両者は同一人物とも)・正栄尼。養育係は大蔵卿局が務めた。

墓所は京都市東山区養源院、京都市右京区清凉寺、和歌山県高野山奥の院。戒名は帰寂山高陽寺殿秀山大居士。

千姫(天樹院)。秀頼の正室。大坂夏の陣後は本多忠刻の正室
千姫(天樹院)。父は徳川秀忠。母は継室・江(崇源院)。大坂夏の陣により夫・秀頼と別れる悲劇のヒロインのイメージが強い。そのイメージが強すぎるからか、本多忠刻の正室としての千姫は、あまり知らなかった。そして天寿を全うしている・・・。
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母であり、子には大野治長・治房・治胤・治純。豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると、子の大野三兄弟と共に豊臣家で重用され権勢を振るった。最期は秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害。戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。

家督相続

1593年(文禄2年)、大坂城で誕生。父・秀吉は57歳。

秀吉の後継者は、秀吉の養嗣子として関白を譲られた従兄・秀次であった。

  • 1593年(文禄2年)10月、秀頼と秀次の娘(槿姫?)が婚約。
  • 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀次事件。秀次は関白職を剥奪され自刃。

当初、秀吉は「秀吉-秀次-秀頼」の政権継承を模索していた。秀次の娘と秀頼の婚約は、その一環である。

豊臣秀次事件により秀吉の継嗣は秀頼と確定。秀吉は秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、諸大名に血判署名させている。

  • 1596年(慶長元年)9月、禁裏で元服。藤吉郎秀頼と称す。
  • 1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が死去。遺命により伏見城から大坂城に移った。

豊臣政権は秀吉の独裁体制の色彩が強かった。秀吉は御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。

秀吉死後、五大老・徳川家康が重臣合議制の原則を無視して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。

五大老・前田利家の死去、七将襲撃事件に伴う五奉行・石田三成の失脚などにより家康は政局の主導権を握った。

豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。
豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。
五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。
石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、石田三成らが徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発。秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加。

秀頼は、西軍の総大将である五大老・毛利輝元に庇護された。関ヶ原の戦いは東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義とした。戦後、秀頼は家康を忠義者として労った。

家康は戦後処理として羽柴宗家の所領(太閤蔵入地)を分配。全国に分散してた約220万石のうち管理を任せていた所領を奪われた。秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落。

近年の研究により、秀頼は西日本を中心とした大名への干渉を行ったり、蔵入地からは依然として収入があった形跡がある。

  • 1603年(慶長8年)2月、徳川家康が征夷大将軍就任。
  • 1603年(慶長8年)7月、婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹・江)と結婚。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。

摂関家としての豊臣家

所領は減ったが、秀頼は摂関家らしく順調な位階や官職の昇進を遂げた。秀頼は独自の官位叙任権を行使。朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けた。

この時期、日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。

  • 1605年(慶長10年)4月、秀頼が右大臣に昇進。家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望したが、淀殿の反対で実現していない。
  • 1607年(慶長12年)1月11日、右大臣を辞す。
  • 1611年(慶長16年)3月、京都・二条城で家康との会見。加藤清正・浅野幸長が同席。後陽成天皇が後水尾天皇に譲位。

淀殿の反対で会見は実現しなかったが、家康は六男・松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。

京都・二条城での家康との会見は、「千姫の祖父に挨拶する」という名目であった。

幕府は豊臣家を五摂家と同じく公家として扱った。朝廷は誕生以来、秀頼を摂家豊臣家の後継者として見なしていた。要するに関白になりうる存在として位置づけていた。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

大坂冬の陣

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?,画像01

徳川家康は将来の秀頼の扱いについては迷いがあったとされている。二条城での会見で豊臣家討伐を決意したとの説もあるが、1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件を口実に秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発した。

秀頼は福島正則・加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に味方するものはほとんどいなかった。しかし正則は大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認している。

浪人になっていた真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登などが大坂城に入城。浪人衆は非常に士気旺盛ではあったが統制が取りにくく、大野治長や淀殿らが対立した。

一例をあげると、真田信繁などが京都進撃を唱えたが、大野治長などが反対し大坂城籠城に決まったことなどがある。

戦況はというと木津川口、博労淵などの大坂城の周辺の砦が攻略され、野田・福島の水上戦でも敗れる。今福や鴫野の戦いでも敗れる。一時だけ佐竹義宣軍を詰める抵抗をみせた。

しかし幕府軍も浪人衆の活躍や大坂城の防御力により苦戦。特に真田丸の戦いでは手酷い損害を受けた。

そこで幕府軍は城内に昼夜を問わず砲撃。一発の砲弾が淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議に賛成した理由との説もある。

大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽き始め、家康は和議を提案。

当初、秀頼は和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現。

真田信繁(幸村)と徳川家康
真田信繁(幸村)と徳川家康について記事投稿します。真田家と徳川家の関係は第一次上田合戦、上杉征伐、第二次上田合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣があります。第二次上田合戦では二代将軍徳川秀忠を関ヶ原の戦いに遅参させています。また大坂夏の陣では、徳川家康に二度も自害を決意させたと伝えられています。
毛利勝永。大坂五人衆とよばれ、大坂夏の陣では豊臣秀頼を介錯
豊臣家の譜代である毛利勝永。大坂五人衆のひとりである。父は毛利勝信(森吉成)。尾張出身で官位は従五位下・豊前守。名前は森吉政、毛利吉政、毛利勝永。通称は豊前守。号は一斎。兄弟は弟・吉近(山内勝近)。「真田丸」ではジャニーズ事務所所属の元男闘呼組・岡本健一が演じる。毛利勝永といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。

大坂夏の陣

大坂方・幕府軍での和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれた。大坂方が和議の条件を履行しなかったため、幕府は自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。幕府は本丸を残し堀を埋め尽くした。

幕府が勝手に堀を埋めたと言われることもあるが、外堀だけではなく、本丸を残し堀を埋め尽くすことは双方合意に基づくもののようである。

1615年(翌慶長20年)、大坂方は浪人の総追放、国替えを拒否。堀を掘り返し始めた。家康は戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発する。

大野治房が大和郡山に出撃し、これを制圧。主力軍が八尾方面に進軍。八尾・若江、道明寺で戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅。木村重成・後藤基次が討ち死にしたため撤退。

浅野長晟を討つべく大野治房らが紀州に出撃。樫井の戦いで先陣・塙直之が浅野軍に破れた。大野治房は帰城。

大野治房。秀頼の遺児・国松と脱出するが、捕われる。生存説も?
大野治房。母は大蔵卿局。兄は大野治長。兄弟とともに豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣では主戦派の中心人物の一人として指揮を執る。1649年(慶安2年)に生存説が流れたため、江戸幕府によって捜索が行われたとされる。
塙団右衛門(直之)。夜討ちの大将、樫井の戦いで散る。時雨左之助とも
塙団右衛門(直之)。加藤嘉明に出仕するまでは謎が多い。関ヶ原の戦い後は、加藤家を退去している。のち小早川秀秋・松平忠吉に仕える。福島正則にも仕えているが、「奉公構(ほうこうかまい)」により罷免される。浪人となり出家。大坂冬の陣が始まると豊臣方に浪人衆として参加。「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒く。

敗戦続きの大坂方は天王寺・岡山の戦いで最終決戦を挑む。真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望んだが実現していない。

岡山口方面では大野治房率いる軍勢が秀忠の本陣まで迫った。しかし態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退。

天王寺方面には真田信繁・毛利勝永らが布陣。信繁は「日本一の兵(つわもの)」と称賛されるほどの攻勢、家康の本陣に近づいて、数度にわたる突撃を敢行。

一時は家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、ついに力尽きた。信繁は退却中に討ち死にし、他の大坂方の部隊も壊滅。

幕府軍は大坂城内に入城。城内の浪人たちまでが裏切って略奪をはじめた。

天守閣は炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れたが、徳川軍に包囲された。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したが、家康は容認していない。

秀頼は淀殿や大野治長らとともに自害。享年23(満21歳没)。

大野治長は片桐且元に通報しているが、且元はこのことを将軍・徳川秀忠に知らせている。

片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
木村重成。秀頼の小姓で正四位上・長門守、戦国最強のイケメン
木村重成。幼少期から秀頼の小姓として仕えたといわれる。知行は3千石。官位は正四位上・長門守。母の宮内卿局(右京大夫局の説あり)は豊臣秀頼の乳母。豊臣姓を下賜されている。真田丸も木村重成を取り上げるとはシブい!

秀頼の死後

子・国松は逃亡したが捕らえられて殺害された。娘・天秀尼は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命。

また元禄初頭に80歳で没した求厭は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったといわれる。

大阪市中央区の豊國神社は、父・秀吉、叔父・秀長と共に秀頼も祭神としている。

  • 1980年(昭和55年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査。1人の頭蓋骨、首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見。
  • 1983年(昭和58年)、骨は京都の清凉寺に埋葬。
  • 2011年(平成23年)10月13日、大坂城三ノ丸に位置する大坂城鎮守社である玉造稲荷神社に秀頼の銅像が建立。

発見された頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷、左耳に障害があった可能性が確認。年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された。

秀頼の官位履歴

押小路家文書によれば、左大臣の辞令(宣旨)が現存するらしいが右大臣までとした。

1596年(文禄5年)5月、「太田牛一旧記」によれば、「左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)従四位下(じゅしいのげ)臣豊臣朝臣藤吉郎秀頼」を名乗ったとする。

最初は、従四位下・左近衛権少将に叙任、すぐに左近衛権中将のようです。

  • 1597年(慶長2年)9月27日、従三位に叙し、左近衛権中将に任ず。
  • 1598年(慶長3年)4月20日、従二位に叙し、権中納言に任ず。
  • 1601年(慶長6年)3月27日、権大納言に任ず。
  • 1602年(慶長7年)1月6日、正二位に叙す。
  • 1603年(慶長8年)4月22日、内大臣に任ず。(徳川家康の右大臣昇進のため)
  • 1605年(慶長10年)4月13日、右大臣に任ず。(徳川家康辞任のため。後任の内大臣は徳川秀忠)
  • 1607年(慶長12年)1月11日、右大臣を辞す。

中将から参議を経ずに直接中納言に任ずるのは、羽柴家が摂関家であることを明示。

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

秀頼評

随筆「明良洪範」(増誉)では、

「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト 」

と記述された。

身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。

「長澤聞書」では、

「世に無き御太り」

と記述された。

家康は二条城で秀頼と会見している。巨体から醸し出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したという逸話もあるほど、武将としての威厳はあったとされている。

本当に秀吉の実子なのか?

「本当に秀吉の実子なのか?」なんてタイトルに書いたが、実際のところはわからない。

ただ前述の「明良洪範」にも記述されていたり、秀頼の体格から実父は大野治長という説は根強い。

それから秀頼生存説があったりする。

その辺のことは淀殿・大野治長の記事でも少し触れているので、参考になればと思う。

淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。
大野治長。大野修理と呼ばれ、母は大蔵卿局。淀殿との密通は本当?
大野治長といえば、豊臣秀頼の側近で、淀殿との密通の噂があるくらいしか知りませんでした。やはり母が大蔵卿局だからだろうか。大蔵卿局あっての大野治長だと思う。豊臣家滅亡時の重臣というか舵取りをしていたほどの重要人物である。管理人は「大野修理」のほうがしっくりくる。

大河ドラマ「真田丸」では中川大志が演じる

大河ドラマ「真田丸」では豊臣秀頼を中川大志が演じる。

今までとは違った豊臣秀頼像を期待している!

第38話「昌幸」

中川大志さん演じる豊臣秀頼が、第38話「昌幸」で初登場!

いや~凛々しくて格好いいです。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

「真田丸」第38話「昌幸」感想。三成を継ぐ清正、さらば安房守
安房守と左衛門佐の九度山幽閉生活が始まった。この生活がいつまで続くかわからない。伊豆守が奔走するが、家康が許さない。世の情勢は、完全に豊臣から徳川に移った。豊臣秀頼は立派な若武者に成長した。しかし立派であるがゆえに家康は・・・。そして安房守の命が尽きようとしている・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

豊臣秀頼 – Wikipedia

関連記事

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

「真田丸」での大坂冬の陣・大坂夏の陣が待ち遠しいですね。

凛々しい豊臣秀頼を期待しているのだが・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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