「真田丸」第38話「昌幸」感想。三成を継ぐ清正、さらば安房守

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安房守と左衛門佐の九度山幽閉生活が始まった。この生活がいつまで続くかわからない。伊豆守が奔走するが、家康が許さない。世の情勢は、完全に豊臣から徳川に移った。豊臣秀頼は立派な若武者に成長した。しかし立派であるがゆえに家康は・・・。そして安房守の命が尽きようとしている・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

昌幸親子は徳川についた信之の助命嘆願の末、紀州の九度山に幽閉されることになった・・・。

歴史好きの管理人が大河ドラマ「真田丸」レビューを好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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大河ドラマ「真田丸」第38話「昌幸」あらすじ

安房守親子の紀州・九度山での幽閉生活が始まった。きりと春の関係は、左衛門佐を挟んで何だかしっくりしない。

というか「きり」は、相変わらずマイペース。春は「きり」に対するというよりは、亡くなった「お梅」にヤキモチを焼いているようだ・・・。

時は過ぎてゆく。1603年(慶長8年)2月12日、徳川家康が征夷大将軍宣下を受ける。さらに二年後の1605年(慶長10年)5月1日、徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。

これで征夷大将軍の徳川家世襲が決定的となった。天下の情勢は豊臣家から徳川家に・・・。

伊豆守は安房守・左衛門佐の赦免に奔走するが家康は許さない。「あれが九度山を離れる時は、骨になったときじゃ」

これが「大御所」と呼ばれた家康の気持ちである。

次第に安房守も感じ始める。「源次郎・・・、これはひょっとすると、わしはもうここから出られんのかもしれんな・・・」そう言った安房守の背中は寂しかった・・・。

伊豆守が当主となった真田家では安房守の名前を言うことも憚れるようになっていた。伊豆守の真田家も、次第にあきらめムードが漂う。

1611年(慶長16年)、二条城で豊臣秀頼と徳川家康が会談。加藤清正も秀頼に付き従う。清正は治部殿の思いを胸に会見に臨む。しかし・・・。

そんな中、安房守の命も尽きようとしていた。安房守は左衛門佐に遺言を託す。

それは、徳川に勝てるただ一つの道。

「紀州紀ノ川の奥、高野山の山裾に、その小さな村はあった。その外れで、一人の戦国武将が死んだ・・・」

奇しくも家康の言うとおりになった。

「信濃に帰りたかった・・・。上田の城に・・・」の言葉を残し、稀代の名将・真田昌幸は逝った・・・。

真田信繁(幸村)の側室、堀田作兵衛興重の娘。真田丸では梅
真田信繁(幸村)の側室で堀田作兵衛興重の娘。真田丸では梅という名前で黒木華が演じていると言ったほうがわかるでしょう。残念なことに資料が、ほとんどありません。信繁(幸村)との間には、信繁(幸村)の最初の子「すへ/菊」をもうけています。のちに「すへ/菊」は石合重定/道定に嫁いでいます。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。

征夷大将軍・徳川家康

秀吉の死後、関ヶ原の戦いの勝利後、ドラマでは描かれてないが、家康は朝廷工作を行っている。

そして、

  • 1603年(慶長8年)2月12日、徳川家康が右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。
  • 1605年(慶長10年)5月1日、徳川秀忠が征夷大将軍宣下。

これにより、征夷大将軍の世襲が決定的となる。

摂関家である豊臣家には「関白」の道があるのだが、おそらく家康は五摂家を含む公家を抱き込んでいる。

1600年(慶長5年)12月19日、関白に九条兼孝が就任。五摂家に関白職を戻す。

これにより、関白職を五摂家に戻している。

太閤・豊臣秀吉が望んだ「武家関白制」

しかし豊臣秀頼が関白職に就くことはなかった・・・。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道
太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。

平八郎ロス

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戦国最強と言われた本多平八郎忠勝の寿命も尽きようとしていた・・・。

心優しい平八郎(藤岡弘、)は、仙千代・百助のために竹トンボを作っていた。

しかし小刀で指を切ってしまう。

この小刀で手傷を負う話は、

忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまった。

忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」

と呟き、その言葉通りになったという。

そして家康(内野聖陽)に隠居を願い出る。

平八郎(藤岡弘、)「既に世は泰平。平八郎の出番はございませぬ」

家康(内野聖陽)「わからんぞ。まだまだ西の方角で、ひと波乱あるやもしれん」

平八郎(藤岡弘、)「その時には、我が槍・蜻蛉切を片手に真っ先に駆けつけまする」

平八郎(藤岡弘、)「この老いぼれ、たとえ手柄立てられずとも命尽き果てるまで、殿に尽くす所存」

平八郎(藤岡弘、)「それこそが武士(もののふ)の務めでござる」

これが平八郎(藤岡弘、)と家康(内野聖陽)の最後の絡み。

「その一生を家康のためにつくした本多忠勝は、大坂の陣を待たずに慶長15年、この世を去る・・・」

戦国最強と謳われた本多平八郎忠勝は、ここに「ナレ死」となる・・・。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

若武者・豊臣秀頼

中川大志が演じる豊臣秀頼。中川大志の豊臣秀頼としては初登場。

この秀頼、格好良くて、凛々しい!

こんな秀頼は、はじめてと言っていいくらいだ。

中川大志が演じる豊臣秀頼が登場した瞬間、Twitterのタイムラインは騒然とした。

今回の豊臣家は勝つ!これで大坂の陣も大丈夫だと・・・。

家康(内野聖陽)が「本当に太閤の子か??」と疑うのも無理はない。

まさに若武者という言葉がピッタリの「豊臣秀頼」である!

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。

二条城会見

有名な豊臣秀頼と徳川家康の二条城での会見

秀頼(中川大志)「どんな形であれ大事なのは、私と家康が会うこと。そうではないのか?」

加藤清正(新井浩文)と片桐且元(小林隆)の心配をよそに言い放った。

この秀頼(中川大志)、いちいち格好いい!

そして会見の挨拶は、

秀頼(中川大志)「豊臣秀頼(とよとみのひでより)である」

家康(内野聖陽)「ご無沙汰いたしております」

と平伏してしまった。

1611年(慶長16年)3月、京都・二条城で家康との会見。加藤清正・浅野幸長が同席。

そして二条城会見後、清正(新井浩文)の身に・・・。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。

大河ドラマ「真田丸」第38話「昌幸」レビュー

第38話「昌幸」で、思いついたことをつらつらと・・・。

透破・佐助

九度山の幽閉生活には佐助(藤井隆)も同行。

はじめて知ったが、佐助(藤井隆)は器用らしい。なんでもすぐに作ってしまう。

しまいには絵もうまい(笑)。

自分と「きり」を書いた絵だった。

佐助(藤井隆)「透破(すっぱ)ですから」

と照れながら言っていた佐助(藤井隆)が可愛かった。

どうやら佐助(藤井隆)は「きり(長澤まさみ)」に思いを寄せているらしい(笑)。

きりと春

きり(長澤まさみ)は、相変わらずマイペース。しかし春(松岡茉優)は苛立っていた。

そして二人の会話は、

春(松岡茉優)「お梅さんに似ているからですか?」

きり(長澤まさみ)「似ているっていうか、お梅ちゃんもあなたも垢抜けていないでしょ」

きり(長澤まさみ)「源次郎様は、そういう人が好みなの。自信持ちなさい」

いかにも「きり(長澤まさみ)」らしい言葉(笑)。

春は亡くなった梅(黒木華)に嫉妬していた。

そして定番の障子に穴をあける。

治部殿(山本耕史)の「あれは苦労するぞ」という言葉が痛いほどわかった左衛門佐(堺雅人)と視聴者であった(笑)。

【真田丸】長澤まさみの「きり」、最初は??最近は好きになった!
大河ドラマ「真田丸」が始まってみると、長澤まさみさんが演じる「きり」というキャラクターが物議をかもした。賛否両論あったが、大多数は否定的な意見であった。その当時、管理人も少し否定的に思っていた。しかし最近では、そのような意見を目にすることはなくなった。そして管理人も好意的に思えてきた。
【真田丸】大谷吉継の娘・春を演じる松岡茉優がキレイに見える!
真田丸のキャスティングで大谷吉継の娘・春を演じるのが松岡茉優さんであることは、以前から知っていた。特別に楽しみにしていたわけではなく、普通に時を過ごしていた。それが春が初登場のシーンで、不覚にも「ドキッ」としてしまった・・・。

前半はコミカル?

前半部分はコミカル仕立てあったようなきがする。

それが顕著に現れていたのが、徳川家康(内野聖陽)・徳川秀忠(星野源)が征夷大将軍になったのを受けての九度山の安房守(草刈正雄)たちのシーン。

家康(内野聖陽)が征夷大将軍に就任した時、

安房守(草刈正雄)「運が向いてきたぞ。家康は今浮かれとる。我らの赦免もそう遠くないと見た」

安房守(草刈正雄)「上田へ帰れるかもしれん。ここでだめならば後はない。源三郎に一踏ん張りしてもらわんとな」

そして秀忠(星野源)が征夷大将軍に就任した時、

安房守(草刈正雄)「今、家康は浮かれておる。最後の機会じゃ。ここで赦免がならねば後はもうないぞ」

浮かれているのは、どっちかと思うほどの安房守(草刈正雄)であった。

この台詞を受けての周りの反応は言葉を失うほどシーンとしていたのは言うまでもない(笑)。

江雪斎殿、さらばでござる

九度山に珍しい客が訪れた。

板部岡江雪斎(山西惇)だ。

江雪斎(山西惇)は、左衛門佐(堺雅人)に言葉を残している。

江雪斎(山西惇)「お主の眼差しの奥に、くすぶっている熾火が見える」

江雪斎(山西惇)「いづれ誰かが、その火を求めに来よう」

江雪斎(山西惇)「楽しみにしておるぞ。真田左衛門佐・・・」

江雪斎(山西惇)は、これからの事を予見している。

恐るべし江雪斎(山西惇)!

これが江雪斎(山西惇)の最後の出番だろう・・・。さらばでござるよ・・・。

板部岡江雪斎。北条三代の外交僧、北条滅亡後は秀吉・家康に仕える
北条三代(氏康・氏政・氏直)に仕えた外交僧・軍師である板部岡江雪斎。後北条家滅亡後は豊臣秀吉・徳川家康に仕えている。千利休の高弟・山上宗二と交流があり、和歌・茶の湯にも造形が深かったと言われる。愛刀の江雪左文字は国宝であり、執権・北条氏(北条時行)の子孫とされる。

謎多き女性!小野お通

八木亜希子演じる小野お通(おののおつう)が初登場!

これからの信之(大泉洋)との絡みも目が離せません。

「小野お通」についての詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

小野お通。詩歌・琴・書画などに秀でた才女、真田信之との関係?
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。

佐吉の思いを継ぐ虎之助

第34話「挙兵」で佐吉(山本耕史)が虎之助(新井浩文)に耳打ちした内容が明らかになった。

佐吉(山本耕史)「もし私が志半ばで倒れたら、豊臣家のことお主に託す。命にかえて秀頼様をお守りしろ」

管理人の予想は外れてしまった。案外普通の言葉であった・・・。

虎之助(新井浩文)は忠実に佐吉(山本耕史)の言葉を守った。

二条城での会見にも同席。

秀頼の上座に座ってでも、その場に居続けた。

しかし・・・。

【真田丸】第34話「挙兵」佐吉が虎之助に耳打ちした内容とは?
【真田丸】第34話「挙兵」の感想記事でも書いたが、石田三成(山本耕史)が加藤清正(新井浩文)に耳打ちした内容を掘り下げて考えてみる。真田丸での三成と清正の関係性は、今までのドラマの描かれ方と少し違う。もちろん対立はしているのだが、何かが違う。タイトルは、あえて佐吉と虎之助の名称を使ってみた。

加藤清正の最期

家康(内野聖陽)にとって清正(新井浩文)は邪魔だった。

その言葉が

家康(内野聖陽)「その前に、あの髭面じゃ」

に表れている。

そして清正(新井浩文)には刺客が・・・。

刺客は二代目・服部半蔵(浜谷健司)。

浜谷健司は、以前にも登場している。初代・服部半蔵として。あの「神君伊賀越え」に・・・。

真田丸での清正(新井浩文)の死因は「毒饅頭」ではなかった。

「加藤清正はこの会見後、肥後へ戻る船の中で発病し、二ヶ月後に死んだ・・・」

加藤清正は、ここに「ナレ死」となる・・・。

管理人の記憶に佐吉と虎之助の関係性が、このように描かれたことはないように思える。

本当によかった!

新井浩文さん、そして山本耕史さん、ありがとうございます!素晴らしかったです!!

加藤清正の死因。二条城での家康と秀頼の会見直後、毒饅頭暗殺説?
加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城で徳川家康と豊臣秀頼との会見。それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もある・・・。
大河ドラマ「真田丸」第五話「窮地」レビュー
大河ドラマ「真田丸」第五話「窮地」レビュー記事です。本能寺の変で織田信長は死んだ。大きな後ろ盾を失った真田家は、またもや窮地に立つ。一方、徳川家康も窮地に立っていた。家康は、岡崎城へ帰還する方法を模索し、「伊賀越え」を決意する。人質となっていた信繁の姉・松を救い出すべく、信繁は安土からの脱出を試みるのだが。。
神君伊賀越え。徳川家康、生涯最大の危機
1582年(天正10年)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反により、本能寺にて自害。「本能寺の変」である。その時、徳川家康は僅かな供廻とともに堺見物をしていた。本能寺の変の報を聞いた家康は、取り乱す。最初、京の知恩院に駆け込んで、自害しようとする。が、家臣たちに説得され、伊賀を超えて三河に帰ることを決意するのであった。。

真田昌幸の遺言

安房守(草刈正雄)は、いじめられて帰ってきた孫・大助に喧嘩の仕方を教える。

そして安房守(草刈正雄)は倒れる・・・。

左衛門佐(堺雅人)に「兵法奥義」を渡し、遺言を語り出す。

安房守(草刈正雄)「いづれ必ず豊臣と徳川はぶつかる。その時は、ここから抜け出し、お前は豊臣につけ」

左衛門佐(堺雅人)「はい」

安房守(草刈正雄)「これより話すは、徳川に勝てるただ一つの道。十年かけてわしが考えた策じゃ」

左衛門佐(堺雅人)「お願いします」

安房守(草刈正雄)「まず手持ちの軍勢をもって、真っ先に尾張を制す」

左衛門佐(堺雅人)「尾張・・・」

安房守(草刈正雄)「ところが頃合いを見て尾張をすてる」

左衛門佐(堺雅人)「すてる?」

安房守(草刈正雄)「一旦近江まで退く。一時でも尾張を抑えたということが大事よ」

安房守(草刈正雄)「これで日ノ本中の徳川に不満を持つ大名の心をつかむ」

左衛門佐(堺雅人)「なるほど」

安房守(草刈正雄)「さらに瀬田と宇治の橋を落とし、敵の追撃を阻む。その間に二条城を焼き払う」

安房守(草刈正雄)「そうなれば徳川勢は、大坂に攻めかかるしかない。それを大坂城で迎え撃つ」

安房守(草刈正雄)「戦は長引かせるだけ長引かせよ。その間に各地で徳川に対して反旗があがる」

安房守(草刈正雄)「反旗があがれば、敵は大坂攻めだけに関わってはおられん。やがては退くしかなくなる」

安房守(草刈正雄)「負ける気がせん!」

左衛門佐(堺雅人)「しかし父上ならきっと上手く運ぶでしょうが。私では難しいのでは・・・」

安房守(草刈正雄)「なんで」

左衛門佐(堺雅人)「私には場数が足りません」

安房守(草刈正雄)「私の立てる策に場数などいらん・・・」

安房守(草刈正雄)「軍勢を一つの塊と思うな。一人一人が生きておる。一人一人が思いを持っておる。それをゆめゆめわすれるな」

左衛門佐(堺雅人)「かしこまりました」

安房守(草刈正雄)は、孫・大助に教えるのと同じように徳川との喧嘩の仕方を左衛門佐(堺雅人)に教えた。

安房守(草刈正雄)とは、そういう男なのだ・・・。

安房守(草刈正雄)にだけ、信玄公の馬のいななきが聞こえた。

安房守(草刈正雄)「おやかたさま・・・」

これが、安房守(草刈正雄)の最期の言葉となった。

武田信玄は真田昌幸を「我が両目の如き」とめでている。

安房守(草刈正雄)が生きて、信濃に帰ることはなかった・・・。

真田幸昌(大助)。父・信繁(幸村)と大坂入城。最期は美談で語られる
真田幸昌よりも「真田大助」のほうが広く知られている印象がある。名前「幸昌」は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されたといわれる。生年については諸説あるが、生涯といえるほど長くなく若くして亡くなっている。真田大助は最期が若年であったことから、なにか物悲しくてなりません・・・。

「真田丸」第38話「昌幸」視聴率

堺雅人主演の大河ドラマ「真田丸」第38話「昌幸」が2016年9年25日放映された。平均視聴率は15.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

前回より僅かにダウン。

ここまで「真田丸」をずっと引っ張ってきた草刈正雄さんの真田昌幸が良かっただけに・・・。

少し寂しい数字となってしまった感は否めない。

「早丸」と呼ばれるBS視聴率は4.9%。好調をキープといった感じです。

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まとめ

わかっていたけど、辛い放送回となった。そして素晴らしい放送回であった。

板部岡江雪斎・本多忠勝・加藤清正、そして真田昌幸・・・。

山西惇さん・藤岡弘、さん・新井浩文さん、ありがとうございます。素晴らしい演技でした!

そして草刈正雄さん。真田丸のMVPとまで評されています。

本当によかった!!

私は、俳優・草刈正雄が演じた真田昌幸を生涯忘れることはないだろう・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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