大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所

大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所,アイキャッチ画像
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関東に在住する管理人が栃木県佐野市の「大庵寺」に行ってみた。大庵寺を、もう一つの「犬伏の別れ」の地とする説がある。小山評定により会津征伐を取りやめ西上する事が取り決められた徳川秀忠が転進した際、大庵寺を宿所として利用したと伝えられている。新町薬師堂からは、すぐ近くです。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

もう一つの「犬伏の別れ」の地とされる「大庵寺」について記事投稿してみたいと思います。

それではいってみよう!

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大庵寺を訪ねて

大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所,画像01

もう一つの「犬伏の別れ」の説もある「大庵寺」を訪ねた。

「犬伏の別れ」の地として有名な「新町薬師堂」より寺だけに規模が大きい。

大庵寺には、犬伏の別れに関するものは何もない。

大庵寺の概要

大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所,画像02

大庵寺の概要について。

  • 1568年(永禄11年)、大庵寺が創建。唐沢城主・佐野昌綱が家臣・津布久昌成の菩提を弔うため。
  • 1570年(永禄13年)、津布久昌成の3回忌。「紙本墨書念仏日記」編纂。

「紙本墨書念仏日記」によれば、昌綱をはじめ家臣488名が念仏を唱え、昌成の法名である大庵から天王山昌綱院大庵寺が開かれました。

大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所,画像03

以来、大庵寺は佐野氏の庇護となる。

  • 1579年(天正7年)、佐野昌綱の肖像画が寄進。
  • 1579年(天正7年)、唐沢城が廃城。のち佐野家臣・福島理左衛門宗俊が拝領した天徳寺の本尊とされる「木造阿弥陀如来坐像」が寄進。

肖像画は昌綱が家臣・山上道牛に命じて描かせた。作風から当時の狩野派絵師の作品と推定されている。

1600年(慶長5年)7月、小山評定により会津征伐を取りやめ西上する事が取り決められた。徳川秀忠が転進した際、大庵寺を宿所として利用したと伝えられている。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る
徳川家康は会津征伐のため下野小山に到着。鳥居元忠の使者から石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した知らせを受ける。1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。西軍・東軍の選別がなされ、東軍が一致団結した大きなイベントであることは間違いない。その流れで関ヶ原の戦いに至る。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

大庵寺

所在地および交通アクセス

大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所,画像04

所在地、交通アクセスなどを記述。

新町薬師堂からは、西へ約700m。

  • 所在地:栃木県佐野市犬伏下町2285
  • アクセス:東武佐野線の堀米駅から2.2km
  • 電話:0283-22-6360
  • 宗派:浄土宗

犬伏の別れ

1600年(慶長5年)7月21日、会津・上杉討伐に向かっていた真田昌幸・信幸・信繁父子は、下野国犬伏(現在の佐野市)に到着し陣を張った。そこへ石田三成から豊臣方に味方するよう旨の密書が届いた。

この密書により父子三人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。これが「犬伏の別れ」といわれている。

どちらが勝っても真田の家が残るようにいうことには、賛否両論があるだろうが・・・。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

新町薬師堂

【武将ゆかりの地】新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台,画像01

大庵寺からは約700m。

「犬伏の別れ」の地としては圧倒的に「新町薬師堂」の方が有名です。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台。別れ橋・米山古墳
関東に在住する管理人が「新町薬師堂」に行ってみた。大河ドラマ「真田丸」第35話「犬伏」に遅れること一週間。念願の「新町薬師堂」だ。真田家ファンにとっては、聖地のような場所である。昼食は森田屋総本店。同日、足を伸ばして行った「史跡・小山評定跡」にも触れる。

麺屋ようすけ

麺屋ようすけ,画像01

昼食は「麺屋ようすけ」佐野ラーメンを食する。

大庵寺からは麺屋ようすけまでの距離は約8km。

2016年9月時点の「食べログ」では、佐野市トップ!

行列が凄かったです。

店内がすごくきれいな印象でした。

メニュー

麺屋ようすけ,画像02

サイドメニューなども充実してます。

麺屋ようすけ,画像03

管理人が注文したのはチャーシューメン。

スープを一口。うまい、うますぎる!!

麺は佐野ラーメン特有のモチモチした麺。けど、モチモチしすぎず。ちょうどいい感じ。スープとのバランスが絶妙。

「食べログ」で佐野市トップなのも頷けます。

比べては悪いが、管理人には「森田屋総本店」より、こっちの方が口に合います。すいません・・・。

麺屋ようすけ,画像04

完食です。美味しかった!

行列が苦にならない人は、是非おすすめです!!!

営業時間および交通アクセス

営業時間、交通アクセスなどを記述。

  • 住所:栃木県佐野市田島町232。田島駅より徒歩3分。
  • TEL:0283-85-9221
  • 営業時間(月・水~金・祝前日):11:00~14:00、17:00~20:30
  • 営業時間(土・日・祝日):11:00~20:30
  • 定休日:火

車では佐野藤岡ICより50号足利方面に。田島JCTを下りて7号を佐野方面に300m進んだ左側。

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まとめ

「大庵寺」と「新町薬師堂」。でも犬伏の別れとしては、圧倒的に有名なのが、「新町薬師堂」。

二つの場所ともに「犬伏」の地名がつく。

本当は二つとも、そうだったりして・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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