片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔

片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔,アイキャッチ画像
この記事の所要時間: 1242(文字数:7,629文字)

片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

片桐且元の評判は、あまりよろしくない。はたしてそうなんだろうか・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

スポンサーリンク

片桐且元

片桐且元(かたぎりかつもと)。1556年(弘治2年)~1615年(元和元年)5月28日。父は片桐直貞。官位は従五位下・東市正。

幼名は市正。名は片桐直盛(直倫)、且盛、且元。別名は直盛、直倫、且盛。通称は助佐、助作。兄弟は貞隆。

正室は片桐半右衛門の娘。子は采女、孝利、為元、成瀬之成継室、小出某室、畠山政信正室。

墓所は京都府京都市の大徳寺、静岡県静岡市の誓願寺。戒名は顕孝院殿東市令三英元居士。

秀吉の直参

秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。有名な「且元」の使用は、1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いの始まる前の頃と考えられている。

  • 1556年(弘治2年)、浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれる。母は不詳。
  • 1573年(天正元年)9月1日、小谷城が陥落。織田信長により浅井氏滅亡。

片桐氏は信濃源氏の名族。伊那在郷の鎌倉御家人であり、支流は承久年間以降に美濃・近江に進出。浅井氏に仕えたのは父・直貞の代からといわれる。

且元が家督を継いだ時期は定かではない。

浅井氏に変わって羽柴秀吉が長浜城主、北近江3郡の領主となり、多くの人材を募った。

且元が秀吉に仕えたのは、1574年(天正2年)以降から1579年(天正7年)までの間といわれる。同じ頃、石田正澄・三成兄弟も仕官している。

長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。

  • 1583年(天正11年)5月、賤ヶ岳の戦い。福島正則や加藤清正らと活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられた。摂津国内に3千石を与えられた。
  • 1584年(天正12年)6月、小牧・長久手の戦い。馬廻衆として150人を率いて本陣を守る。
  • 1586年(天正14年)7月1日、従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)に任官。豊臣姓を下賜。
  • 1586年(天正14年)、方広寺大仏殿の建設。作事奉行。

これより奉行として活躍。道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わる。丹波国・大和国・伊予国など、小堀正次・浅野長政・福島正則などと共に検地奉行となる。

  • 1587年(天正15年)、九州征伐。軍船調達を担当。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐。脇坂安治や徳川家臣と共に小田原城の接収に立会った。
  • 1591年(天正15年)、秀吉の三河・吉良での狩猟に随兵。

小田原征伐後、早川長政とともに鎌倉・鶴岡八幡宮の修復造営手配と所領安堵及び検地を行った。

奥州仕置では出羽国・秋田での検地、浅利事件の調査に関わった。当事者の上洛を差配し、長束正家らに裁定を委ねている。

文禄の役では弟・貞隆とともに出征。主な任務は街道整備、船の調達などであった。2度の晋州城の戦いなどに参加。

  • 1593年(文禄2年)9月~10月、講和に向けた休戦のため帰国。
  • 1594年(文禄3年)、伏見城普請を分担。文禄検地では摂津国、河内国北部の奉行となる。
  • 1595年(文禄4年)、播磨国内などに5,800石を加増。本知の4,200石と併せて1万石となる。所領は播磨・摂津・伊勢に点在。
  • 1596年(文禄5年)閏7月13日、慶長伏見地震。大坂の都市改造計画に関わる。
  • 1598年(慶長3年)3月15日、醍醐の花見。三の丸殿に随従。

1598年(慶長3年)8月15日、小出秀政らとともに秀頼の傅役(輔佐役)5名の1人として指名。大坂城番の城詰めとして近侍。

羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!
羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に
小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

豊臣家家老

片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔,画像01

1599年(慶長4年)1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷っている。

この際、徳川家康は伏見城に戻るまで且元の屋敷に2泊している。この時より且元と家康の関係が始まる。

  • 1600年(慶長5年)、長束正家ら奉行衆により、且元と小出秀政は大坂城の所務の監督的な立場に任じられる。
  • 1600年(慶長5年)、家康ら大老衆からは、石田正澄・石川貞清・頼明兄弟とともに御奥の警護役に任じられる。
  • 1600年(慶長5年)9月、関ヶ原の戦い。文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)についた。大津城の戦いでは増田長盛と同じく家臣を派遣。

東軍勝利後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣・徳川両家の調整に奔走。家康から播磨国と伊勢国の所領6千石と引替に大和国竜田2万4千石を与えられた。茨木城主となった。

家康を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。蔵入地を総監する立場から徳川家の所務方・大久保長安の検地などに協力。

寺社奉行として、畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組んでいる。

  • 1604年(慶長9年)、秀吉7回忌の総奉行。
  • 1608年(慶長13年)、河内国狭山藩の所領にまたがる狭山池の治水事業にあたる。
  • 1609年(慶長14年)、猪熊事件。後陽成天皇の寵姫と不良公家の乱行醜聞として悪名を轟かせた事件。京都所司代・板倉勝重に協力。
  • 1610年(慶長15年)、秀吉13回忌の総奉行。

1605年(慶長10年)頃、家康より豊臣家直轄地の摂津国・河内国・和泉国・小豆島を管轄する国奉行のような立場に任じられる。

本多正純による西国33国の郷帳・国絵図作成事業では、奉行担当国の絵図作成を担当。

  • 1611年(慶長16年)、家康上洛。禁裏普請では、大坂方で3万石を負担。
  • 1611年(慶長16年)3月28日、二条城にて家康と秀頼の会見。且元・加藤清正も同席。
  • 1614年(慶長19年)、以心崇伝が起草した禁止令に従い、教会を打ち壊して棄教政策を徹底した。53人を肥前国・長崎へ送っている。

二条城会見の前より家康から要請があり、秀頼の母・淀殿は「家康から大坂城へ来るべき」と難を示していた。

且元は「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」と上洛を説得。その際に吉凶を占ったクジで大凶を引くと、吉に書き直させたといわれている。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。

方広寺鐘銘事件

1614年(慶長19年)3月、再建開始から14年目の方広寺大仏殿がほぼ完成。

  • 1614年(慶長19年)4月、梵鐘が完成。銘文の選定は南禅寺長老・文英清韓。奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれている。
  • 1614年(慶長19年)5月、家康は方広寺の供養の導師に真言宗仁和寺門跡の覚深法親王を指名。
  • 1614年(慶長19年)7月、後水尾天皇が大仏開眼法要に天台宗妙法院門跡の常胤法親王を指名する勅命を下す。

文英清韓。「国家安康」で有名な方広寺梵鐘の銘文を起草、南禅寺の長老
文英清韓(ぶんえいせいかん)。伊勢国の出身。臨済宗の僧。京都・東福寺の長老、南禅寺の長老。晩年は身柄を拘束され駿府で蟄居。清韓は漢詩文に秀で、京都・方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草。あの「国家安康」の銘文である・・・。

棟札の書は三井寺長吏の興意法親王による。

家康は日取りについて指示を出している。

  • 8月3日、開眼法要。
  • 8月18日、堂法要。

これが家康が出した指示である。

且元は18日は秀吉17回忌の大祭のため、両法要を8月3日とした。早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とした。

1614年(慶長19年)7月末、方広寺鐘銘事件が起こる。板倉勝重からの報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられた。

崇伝と本多正純を中心に調査が行われた。板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定。

  • 1614年(慶長19年)8月13日、且元、大野治長、清韓などが駿府へ派遣。
  • 1614年(慶長19年)8月17日、鞠子宿で清韓が駿府奉行に捕縛。
  • 1614年(慶長19年)8月18日、銘文に対しての検証が命じられた。

検証者は崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺、その下位に属する京都五山の7人の僧侶であった。

清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬とみなされ、さらに林羅山より呪詛などと批難された。

且元は崇伝らへの弁明に務めた。家康とは面会できていない。大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われた。

且元と大蔵卿局は、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」と伝えられた。

大坂に帰った且元は、徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った。戦争を避けるために以下のことを提案している。

  • 秀頼の駿府と江戸への参勤。
  • 淀殿を江戸詰め(人質)とする。
  • 秀頼が大坂城を出て他国に移る。

の中から一つを早急に選ぶ提案をした。結果、淀殿の側近・大野治房や渡辺糺に家康との内通を疑われた。

  • 1614年(慶長19年)9月23日、織田信雄より薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされる。屋敷に篭り守りを堅める。
  • 1614年(慶長19年)9月28日、高野山に入るとして大坂城を出ることを決める。秀頼側からも不忠者であることを理由に改易が決定される。

且元は蔵米や金などの勘定の引き継ぎを済ませた。

1614年(慶長19年)10月1日、300程の雑兵を率き連れ、弟・貞隆や石川貞政らと共に大坂城より退去。

且元は貞隆の茨木城へ入り、板倉勝重に援兵を要請。

大野治長。大野修理と呼ばれ、母は大蔵卿局。淀殿との密通は本当?
大野治長といえば、豊臣秀頼の側近で、淀殿との密通の噂があるくらいしか知りませんでした。やはり母が大蔵卿局だからだろうか。大蔵卿局あっての大野治長だと思う。豊臣家滅亡時の重臣というか舵取りをしていたほどの重要人物である。管理人は「大野修理」のほうがしっくりくる。
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母であり、子には大野治長・治房・治胤・治純。豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると、子の大野三兄弟と共に豊臣家で重用され権勢を振るった。最期は秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害。戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。
大野治房。秀頼の遺児・国松と脱出するが、捕われる。生存説も?
大野治房。母は大蔵卿局。兄は大野治長。兄弟とともに豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣では主戦派の中心人物の一人として指揮を執る。1649年(慶安2年)に生存説が流れたため、江戸幕府によって捜索が行われたとされる。

大坂冬の陣・大坂夏の陣

且元は家康に人質を送って大坂の陣に従属している。

  • 1614年(慶長19年)10月10日、土佐へ対して大坂への米の回送を禁じている。
  • 1614年(慶長19年)10月12日、家臣・多羅尾半左衛門を300の兵で堺の救援に向かわせた。迎撃された半左衛門は戦死。

且元は本隊を率いて海路を進むために尼崎の港を目指したが、上手くいかずに逃げ帰った。

  • 1614年(慶長19年)10月23日、家康が二条城に到着。軍議に加わり、先鋒を命じられる。
  • 1614年(慶長19年)11月1日、小豆島周辺3ヶ国に物資の回送。大坂城の経済封鎖を命じた。
  • 1614年(慶長19年)11月3日、絵図制作。
  • 1614年(慶長19年)11月5日、今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛し、徳川方に全面的な協力。
  • 1614年(慶長19年)12月、真田丸の戦い。徳川方が敗れる。
  • 1614年(慶長19年)12月16日、北側に100門以上の大筒や石火矢での攻撃を開始。
  • 1614年(慶長19年)12月18日、備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃を行う。

この攻撃は大きな戦果をあげ、大坂方との講和に持ち込んだ一つの契機となった。

  • 1615年(慶長20年)1月、隠居を願い出るも許されず。
  • 1615年(慶長20年)4月、駿府に屋敷が与えられた。

江戸への拝謁の途上で大坂夏の陣が起きている。

  • 1615年(慶長20年)5月6日、且元が道明寺に到着。
  • 1615年(慶長20年)5月7日、久宝寺で弟・貞隆の隊に合流。軍監・石川貞政、蒔田広定らと会見。且元・貞隆隊は岡山口への布陣を命じられた。

嫡男・片桐孝利は初陣で、家臣・梅戸八右衛門を同行させている。

大坂落城後、大野治長から秀頼や淀殿が山里丸にいることを知らされた。同時に助命嘆願を依頼されている。

且元は、このことを将軍・徳川秀忠に通報している。豊臣氏は助命叶わず滅亡。

1615年(慶長20年)5月28日、且元が京屋敷で死去。享年60。前年より肺病を患っていた。葬儀は大徳寺で行われた。

真田信繁(幸村)と徳川家康
真田信繁(幸村)と徳川家康について記事投稿します。真田家と徳川家の関係は第一次上田合戦、上杉征伐、第二次上田合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣があります。第二次上田合戦では二代将軍徳川秀忠を関ヶ原の戦いに遅参させています。また大坂夏の陣では、徳川家康に二度も自害を決意させたと伝えられています。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

片桐且元の子孫

且元の跡は嫡男・孝利が家督相続。

1655年(明暦元年)、竜田藩1万石は4代・片桐為次が早世したことで無嗣断絶。且元の系統は絶えてしまった。

且元の弟・片桐貞隆は大和小泉藩1万1千石の藩主となり、その家系は明治まで大名として存続し家名を伝えた。

明治期には子爵に叙せられている。

片桐且元の評価

当時の且元の評価を紹介する。いづれも秀頼を裏切り家康に味方した且元に対しては批判的な評価が下されている。

「慶長見聞集」

「且元、家老として無二の忠臣を装うが、君臣不快となると言えども多年のなじみを忘れ、家康公に秀頼殿の隠れ場所を申し上げしこと侍にあらずと人々申しける」

「日本西教史」

「イチノカミ(且元)は公方と同じく性質は狡猾で、公方に大坂城と秀頼を服従させる密約を持ち、露見して公方の下へ脱出すると、大坂城には軍備や兵士不足により容易に勝てると告げた」

大河ドラマ「真田丸」では小林隆が演じる

大河ドラマ「真田丸」では片桐且元を小林隆が演じる。

小林隆といえば、大河ドラマ「新選組」で源さん(井上源三郎)を演じた役者である。脚本は三谷幸喜氏。

真田丸では、裏で平野長泰(近藤芳正)に通称の助作をもじり「ヌケサク」と呼ばれている(笑)。

そして片桐且元・平野長泰は「賤ヶ岳の七本槍」の一人である。

平野長泰。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない
「真田丸」で平野長泰が登場するとは思っても見なかった。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない。平野氏は鎌倉幕府の執権・北条氏の庶流の子孫、父・長治は清原業賢の子(清原宣賢の孫)とする説がある。秀吉からは大和国・十市郡田原本近隣七ヶ村に5千石の知行を与えられ、従五位下・遠江守に叙任。豊臣姓を下賜。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

片桐且元 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

片桐且元の歴史そのものが、羽柴・豊臣家の歴史とともにという感じだ。

最後に徳川家に出奔したからか、良く語られることはない。

豊臣家が滅亡した時、片桐且元は何を思っていたのだろう・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

スポンサーリンク

フォローする(Push7もあります)

コメントの入力は終了しました。