聚楽第落首事件。聚楽第落書き事件、豊臣政権への批判~金配り

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1589年(天正17年)2月25日、いわゆる聚楽第落首事件は起きた。歴史を冷静に見れる現代人の我々からすると、豊臣政権の崩壊の始まりというか前兆みたいな事件だ。秀吉の処罰の仕方が尋常でない。狂ってるとも言える。時の権力者は批判されるが、よく思ってない人が大勢いた証拠なのか。どう考えてもこの辺から秀吉おかしいよね。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

「真田丸」第20話「前兆」で描かれる聚楽第落首事件を調べてみた。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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聚楽第落首事件

聚楽第。「じゅらくてい/じゅらくだい」と読む。

1589年(天正17年)2月25日、聚楽第の門の屯所(警備兵の詰所)の白壁に秀吉を批判する落首が書かれた。いわゆる「聚楽第落首事件(聚楽第落書き事件)」である。

すぐに落首は消されたため、落首の内容に関しての記録は残っていない。「多聞院日記」に事件の3日後、2月28日に事件のことが記述されているため、広く世間に知れ渡っていたようである。

資料としての信憑性が疑問視される「武功夜話」ではあるが、落首を掲載しているので紹介する。

大仏の くどくもあれや やりかたな くぎかすがいは 子たからめぐむ

前年に行われた刀狩令は、方広寺の大仏の材料にする名目で行われた。淀殿(茶々)の懐妊を茶化している。

ささ絶えて 茶々生い茂る 内野原 今日は傾城 香をきそいける

佐々成政は肥後国人一揆の責任を取らされ自害。淀殿(茶々)の権力は、ますます強くなり色香ばかりを競っている。

二首とも痛烈に秀吉への批判と、淀殿(茶々)の懐妊を茶化している。「武功夜話」によれば他にも数首あったようである。

淀殿(茶々)が産んだ捨(鶴松)は2年しか生きていない・・・。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。

事件の影響

ここからは「多聞院日記」の記述日。

  • 1589年(天正17年)2月28日、大名10名が追放処分。
  • 1589年(天正17年)3月18日、番衆17名(事件当日夜に門を警備していた者)の鼻・耳を削ぎ磔。

ここからは、大坂天満本願寺に身を寄せていた山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」の記述日。

  • 1589年(天正17年)2月29日、追放処分をうけた尾藤道休を匿った本願寺顕如に引き渡しを迫る。
  • 1589年(天正17年)3月1日、本願寺は尾藤道休と願得寺顕悟(けんご)を自害させ、増田長盛と石田三成に首を差し出す。
  • 1589年(天正17年)3月2日、尾藤道休と願得寺顕悟(けんご)の家を取りつぶし、2人の家があった町(街区)を焼き払った。
  • 1589年(天正17年)3月19日、尾藤道休の妻子を含む66名(彼らが住んでいた街区の住民か)を京都六条河原で磔にて処刑。

この事件の黒幕として、斯波義銀と細川昭元が捕縛されてます。名族でもどうにでもできるという秀吉の権力誇示なのでしょうか。無実の二人は、すぐに許されている。

秀吉の恐ろしさと執念を感じます。

有名な落首

ほかの落首も紹介する。

末世とは 別にはあらじ 木下の 猿関白を 見るに付けても

「猿(秀吉)が関白とは世も末である」という意味。

千利休切腹の2日前、1591年(天正19年)2月26日、洛中で詠まれたもの。

大河ドラマ「真田丸」第20話「前兆」

「真田丸」第20話「前兆」では、聚楽第落首事件が大きく扱われた。

特に山本耕史演じる治部殿がよかった!

「真田丸」第20話「前兆」感想。豊臣家の母・北政所と石田三成
秀吉は民を恐れた。自分が民であったこともあるが、民の恐ろしさを知っているのである。その昔自身は、その民にさえも虐げられた。コンプレックスからか聚楽第落首事件では異常な裁きをする。我々が勘違いしているだけで、秀吉にとっては普通の裁きかもしれない。北政所が言うように秀吉は最初から何も変わってないのかもしれない・・・。

大河ドラマ「秀吉」での聚楽第落首事件

1996年放送の「秀吉」(42話・淀の子、誕生)でも聚楽第落首事件が扱われた。

秀吉(竹中直人)と石川五右衛門(赤井英和)は幼馴染で親友であった。

その五右衛門(赤井英和)の息子が、聚楽第に落書きをした。そして秀吉の知らないところで五右衛門(赤井英和)の子供は処刑されたという設定だった。

聚楽第落首事件というと、そのシーンを思い出してしまう。

「真田丸」第20話「前兆」では、どのように描かれるか楽しみだ!

聚楽第での金配り

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聚楽第繋がりということで「金配り」についても書いておく。

1589年(天正17年)5月20日、聚楽第南二ノ丸馬場で「金配り」を行った。2町(約2百メートル)にわたって金銀を台に積み、大名や公家に大判小判を配った。

記録により枚数が異なるが、

  • 天皇の弟・織田信雄・徳川家康に金1千両・銀1万貫
  • 豊臣秀長に金3千両・銀2万貫
  • 豊臣秀次に金3千両・銀1万貫

などといわれている。配った金銀は総計36万5千両。

まさに秀吉の絶頂期!どこが頂点かは難しいところであるが、一区切りとして小田原征伐にて全国統一を成し遂げたあたりが秀吉のピークだろうか・・・。

豊臣秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識、大和宰相~大和大納言
羽柴(豊臣)秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識。もとは尾張国中村生まれの百姓である。兄・秀吉が天下人になると100万石を超える大大名になった。領地と官位から大和宰相、大和大納言と呼ばれた。豊臣政権では政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。また秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であったのだが・・・。
豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

聚楽第での出来事

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

昔は豊臣秀吉って出自が低いところから出世して英雄視されていたけど、最近は秀吉の残忍さも伝えられ描かれている。

英雄かどうかは別にして、管理人自身は豊臣秀吉は嫌いじゃない。

ただ、この事件を契機に秀吉は自ら豊臣政権を破壊していく。千利休切腹・朝鮮出兵・豊臣秀次事件などだ。

秀吉・豊臣家のことを書いていると、何かやるせない気持ちになる・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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