千利休(宗易)。織田信長の茶頭から豊臣秀吉の側近へ、わび茶を完成

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堺の商家の生まれで、商人・茶人の千利休(宗易)。わび茶(草庵の茶)の完成者であり、「利休七哲」など数多くの弟子を抱え、茶聖と称された。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠。天下人・豊臣秀吉の側近の一面もあり、茶人として名声と権威を誇った。「黄金の茶室」の設計でも有名だが、利休の茶道とはかけ離れたものだろう・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

織田信長・豊臣秀吉関連のドラマには千利休は外せませんよね。武将でもないのに存在感がありすぎます。それが利休の最期に関わるような気が・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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千利休

千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう)。1522年(大永2年)~1591年(天正19年)2月28日。父は田中与兵衛(田中與兵衞)。母の法名は月岑(げっしん)妙珎。妹は宗円(茶道久田流へ続く)。

和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。商人、茶人。

幼名は田中与四郎(與四郎)。法名は宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)。

わび茶(草庵の茶)の完成者。茶聖。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠。「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。

豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。

千利休の妻と子

千利休の家族。

  • 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ):先妻・お稲。三好長慶の妹。
  • 宗恩(そうおん):後妻・おりき。元は能役者の宮王三入の妻。

  • 千道安:長男。母は宝心妙樹。
  • 宗林(そうりん):次男。母は宗恩。夭折。
  • 宗幻(そうげん):三男。母は宗恩。夭折。
  • 田中宗慶:一説に庶長子。
  • 清蔵主(せいぞうしゅ):庶子。明叔寺を号。
  • 千少庵:養嗣子。宗恩の連れ子。

  • 不明:長女。母は宝心妙樹。1558年(永禄元年)頃、茶人・千紹二に嫁ぐ。
  • 不明:次女。母は宝心妙樹。1576年(天正4年)頃、利休の弟子である万代屋宗安に嫁ぐ。1589年(天正17年)豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、後の利休の自害の遠因になったという説がある。夫が没すると、実家に戻った。
  • 三:三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる石橋良叱に嫁ぐ。三の逸話は一説には彼女の事とも言われる。
  • 吟:四女。母は宝心妙樹。1584年(天正12年)本能寺の僧侶・円乗坊宗円(古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
  • 不明:五女か?魚屋与兵衛に嫁ぐ。
  • 亀(かめ):末女、六女か?名は長(ちょう)とも。1576年(天正4年)頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子千宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。

居士号「利休」を勅賜される

若年時は諱(いみな)の「宗易」を使用している。

広く知られている利休の名は、1585年(天正13年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜された。

居士号「利休」は町人の身分では宮中に参内できないためであり、考案者は大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。

「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗った。

織田信長の茶頭~最期

千利休(宗易)。織田信長の茶頭から豊臣秀吉の側近へ、わび茶を完成,画像01

茶の湯の師は北向道陳、武野紹鴎。堺・南宗寺に参禅、本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。

織田信長が堺を支配すると茶頭となる。本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えている。

1587年(天正15年)、北野大茶湯を主管。

一時は秀吉の重い信任を受け、「黄金の茶室」の設計などを行った。これが悲劇の始まりになる・・・。

聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わる。茶人として名声と権威を誇り、秀吉の政事にも大きく関わった。

相反して草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、「わび茶」を完成させる。

1591年(天正19年)、とつぜん秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられた。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命はかなわなかった。

利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられた。享年70。

利休奪還の恐れがあったため、秀吉の命により上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。

利休の首は一条戻橋で梟首。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといわれている。

利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。

人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)

吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)

提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)

今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)

利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われている。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

切腹の理由

利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」とする説が知られている。

が、その他にも様々な説があり、詳しくは解明されていない。

  • 秀吉は死罪まで考えていなかったが、利休が一切の弁明をしなかったために切腹を命じた説。
  • 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)嫌疑説。
  • 天皇陵の石を勝手に持ち出し、手水鉢や庭石などに使った説。
  • 秀吉と茶道に対する考え方の相違説。
  • 秀吉は「わび茶」が嫌いで、黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた説。

  • 信楽焼の茶碗を秀吉に処分するように言われたが、無視していたため逆鱗に触れた説。
  • 利休の娘を側室に望まれたが、断ったため恨まれた説。
  • 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれた説。
  • 秀吉の朝鮮出兵を批判した説。
  • 天下人・秀吉と芸術家・利休の自負心対立説。
  • 秀吉から堺の権益を守ろうとした説。
  • 徳川家康と共謀して秀吉を暗殺しようとした説。

などがある。

利休七哲

利休七哲(りきゅうしちてつ)は、千利休の高弟7人を指す呼称。

  • 蒲生氏郷:筆頭
  • 細川忠興:三斎
  • 古田重然:織部
  • 芝山宗綱:監物
  • 瀬田正忠:掃部
  • 高山長房:右近/南坊
  • 牧村利貞:兵部

である。

細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

十哲

十哲(じってつ)。

利休七哲に織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)の三人を加える。

千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説ある。

前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る
前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。
織田有楽斎(長益)。有楽流を創始、利休十哲の一人。有楽町との関係?
織田長益(有楽斎)。織田信秀の十一男。兄・信長とは年齢が13歳離れている。長益系織田家嫡流初代。「利休十哲(りきゅうじってつ)」の一人にも数えられる。のち茶道「有楽流」を創始。京都建仁寺の正伝院を再興、ここに立てた茶室「如庵」は現在、国宝に指定されている。

利休門三人衆

利休門下の武将のなかで、特に優れていたといわれる三人。

  • 蒲生氏郷:筆頭
  • 細川忠興:三斎
  • 芝山宗綱:監物

である。

真田丸では桂文枝が演じる

大河ドラマ「真田丸」では千利休を桂文枝が演じている。

2016年になって何かと話題の多い桂文枝師匠ですが(笑)。どうなんでしょうか?・・・。

  • 1996年「秀吉」-仲代達矢
  • 2002年「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」-古谷一行
  • 2009年「天地人」-神山繁
  • 2011年「江~姫たちの戦国~」-石坂浩二
  • 2014年「軍師官兵衛」-伊武雅刀

千利休を演じた人物をあげてみました。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

千利休 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされたと言われている。

両巨頭が健在だった豊臣政権はうまく機能していたのであろう。

しばらくして黒田官兵衛は遠ざけられ、豊臣秀長、千利休が亡くなった。秀吉にものが言える人物がいなくなった。

この頃からの秀吉は別人のように見える。

豊臣秀長、千利休の死後、豊臣家の悲劇が始まったような気がしてならない・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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