加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い

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この記事の所要時間: 1520(文字数:9,209文字)

熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

加藤清正、管理人が好きな武将の一人です。豊臣恩顧の武将ということで福島正則と並び称されるが、少しタイプは違うようだ・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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加藤清正

加藤清正(かとうきよまさ)。1562年(永禄5年)6月24日~1611年(慶長16年)6月24日。父は加藤清忠。母は伊都(鍛冶屋清兵衛の娘)。尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。

幼名は夜叉丸。別名は虎之助。肥後熊本藩初代藩主。

正室は山崎氏(山崎片家女)。継室は清浄院(水野忠重女・徳川家康養女)。

側室は本覚院(菊池武宗女)、浄光院(赤星太郎兵衛女)、正応院(玉目丹波女)。

子は百助(養子・山崎片家子)、虎熊、忠正、忠広、あま姫(古屋、本浄院、榊原康勝正室のち阿部政澄正室)、八十姫(瑤林院、徳川頼宣正室)。

墓所は本妙寺(熊本県熊本市)、天澤寺(山形県鶴岡市)、覚林寺(東京都港区)、池上本門寺(東京都大田区)、本圀寺(京都市山科区)。

戒名は浄池院殿永運日乗大居士。

「三振法」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。

秀吉の子飼い~肥後統治

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秀吉の子飼いから肥後統治までを簡単にまとめた。

  • 1562年(永禄5年)6月24日、加藤清忠の子として加藤清正が生誕。
  • 1573年(天正元年)、近江長浜城主・羽柴秀吉の小姓になる。母が秀吉の生母・大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった。
  • 1576年(天正4年)、170石の知行。
  • 1580年(天正8年)9月19日、秀吉から播磨国神東郡内に120石の知行。
  • 1582年(天正10年)4月14日、豪の者・竹井将監を討ち取る。
  • 1582年(天正10年)、本能寺の変。山崎の戦い。

大政所(仲・なか)。秀吉、秀長、朝日姫の母。「秀吉」では市原悦子
大政所(仲・なか)。子には豊臣秀吉、秀長、日秀、朝日姫(旭姫・駿河御前)。秀吉が関白になったことにより従一位を賜っている。法名は天瑞院春岩。秀吉が天下人になったため、途中から人生が劇的に変わった人物である。僅かな期間であるが年老いてから、息子・秀吉のため徳川家康の人質になっている。死後に後陽成天皇から准三后を追号。
長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。

  • 1583年(天正10年)、賤ヶ岳の戦い。敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
  • 1586年(天正14年)、秀吉の九州平定。肥後国領主・佐々成政が失政により改易されると、肥後北半国19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。
  • 1589年(天正17年)、小西領・天草一揆を鎮圧。小西行長の説得を無視して出兵を強行している。

清正が肥後半国を与えられた理由は、佐々成政の失政にもあるように九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた。

長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている。

肥後南半国は同様に上使を務めていた小西行長に与えられている。

羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!

文禄の役

1592年(文禄元年)からの文禄の役では、朝鮮へ出兵。

一番隊から三番隊は、

  • 一番隊主将:小西行長
  • 二番隊主将:加藤清正は鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置く
  • 三番隊主将:黒田長政

であった。

  • 1591年(天正19年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している。
  • 1592年(文禄元年)4月17日、釜山上陸。
  • 1592年(文禄元年)5月3日、南大門から漢城に入城。

漢城攻略後は一番隊や三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。

その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かった。海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。

明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けた。

一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか?と疑惑を持たれることとなる。

これが一番隊主将・小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている。

その後、清正は侵攻を続けるが、明軍が現れたことにより漢城に入る。

1593年(文禄2年)6月、第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させている。

明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件をそのまま伝えた。秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立した。

清正が講和の邪魔になった行長は、「豊臣姓を勝手に名乗ったこと」「独断専行した罪」などを秀吉に訴えた。石田三成が行長を支持したので清正は京に戻され謹慎。

清正の帰国については講和進展と明使の来日に伴う軍の一部撤退による帰国であるとする説も出されているのだが・・・。

後藤又兵衛(基次)。黒田長政との確執は?黒田二十四騎・黒田八虎
後藤又兵衛(基次)。「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。官位は従六位下・隠岐守。黒田家を出奔したのに「黒田二十四騎」「黒田八虎」に数えられているのが凄い!黒田家を出奔したのは他国の者(細川氏、池田氏)と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされる。生存説などは多数で、伝承が多い武将である。

地震加藤

「地震加藤」として慶長伏見地震(1596年(文禄5年)閏7月13日)の際、秀吉の伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる逸話がある。

清正が地震の2日後に領国に送った書状には、

「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」

「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」

とある。

清正がいたのは伏見、京ではなく大坂であったことが推定されている。真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったとみられている。

慶長の役

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1597年(慶長2年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。

小西行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けていない。

西生浦倭城‎を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。忠清道鎮川まで進出した。

清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城‎に移った。清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。

1597年(慶長2年)12月、蔚山城の戦い。57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せた。側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城。明・朝鮮軍に20,000人の損害を与えている。

1598年(慶長3年)9月、再び蔚山倭城は攻撃を受けたが敵を撃退している。

朝鮮の民衆から清正は「鬼(幽霊)上官」と恐れられている。清正はセロリを日本に持ち込んだと伝わり、セロリの異名の一つが「清正人参」である。

清正が持ち帰ったとされる石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸として、京都市左京区の大徳寺総見院に残る。

清正といえば「虎退治」が有名であるが、虎拳という遊びの元になったといわれている。

この逸話は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている。

秀吉の死後~晩年

秀吉の死により、加藤清正らは日本に帰国。

  • 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。五大老・徳川家康に接近し、家康の養女を継室としている。
  • 1599年(慶長4年)3月28日、前田利家が死去。福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こす。

清正は家康へさらに接近した。

島津家重臣・伊集院忠真が謀反を起こした。この庄内の乱の首謀者・伊集院忠真を清正が支援していたことが家康に発覚した。

庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた。激怒した家康は清正の上洛阻止を有馬則頼に命じている。

清正は事実上の謹慎であったため会津征伐、関ヶ原の戦いの参加を許されていない。

しかし清正は家康に大坂の家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣している。石田三成挙兵後、家康は清正の家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。

清正は黒田如水を通して家康ら東軍に協力する約束を交わした。家康から許された清正は8月後半から黒田軍とともに出陣。

小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略。九州の西軍勢力を次々と破り東軍の勝利に貢献する。

論功行賞により、小西旧領の肥後南半国を与えられ52万石の大封を得た。

  • 1606年(慶長11年)、徳川四天王・榊原康政の嫡男・康勝に娘の「あま」を嫁がせた。康政急死により康勝の後見人となる。
  • 1610年(慶長15年)、尾張国・名古屋城の普請に協力。
  • 1611年(慶長16年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を斡旋。
  • 1611年(慶長16年)6月24日、帰国途中の船内で発病し熊本で死去。享年50。

加藤清正が統治する肥後国の豊臣氏の蔵入地3万石は残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていたようである。なんとも清正らしいではないか。

二条城での会見には秀頼の護衛役ではなく、次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・頼宣の護衛役として参加した。

清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行している。家康は徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待した。

余談ではあるが、二条城で会見した家康は秀頼の聡明さに驚愕し、豊臣家を滅ぼす決意をしたといわれている・・・。

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

加藤清正の死因

加藤清正の死因。二条城での家康と秀頼の会見直後、毒饅頭暗殺説?,アイキャッチ画像

加藤清正の死因は諸説ある。

死因としては、

  • 好色ゆえの虚ノ病(腎虚・花柳病)
  • 家康またはその一派による毒殺説
  • 瘡(癩病・ハンセン病)

がある。

暗殺説の中でも

  • 二条城会見での料理による毒殺
  • 毒饅頭(まんじゅう)による毒殺

など様々にある。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

加藤清正の死因。二条城での家康と秀頼の会見直後、毒饅頭暗殺説?
加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城で徳川家康と豊臣秀頼との会見。それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もある・・・。

加藤清正の子孫

加藤家の家督は三男・忠広が相続した。

理由は諸説あるが、1632年(寛永9年)に加藤家は改易。忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。

加藤家の家系は山形県酒田市大字新堀などで続いている。

肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部。熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。

本妙寺は細川氏の菩提寺(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進されている。

賤ヶ岳の七本槍

羽柴秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれている。

  • 福島正則
  • 加藤清正
  • 加藤嘉明
  • 脇坂安治
  • 平野長泰
  • 糟屋武則
  • 片桐且元

実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人というのは語呂合わせで、七本槍以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている。

「賤ヶ岳の七本槍」は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。

羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
平野長泰。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない
「真田丸」で平野長泰が登場するとは思っても見なかった。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない。平野氏は鎌倉幕府の執権・北条氏の庶流の子孫、父・長治は清原業賢の子(清原宣賢の孫)とする説がある。秀吉からは大和国・十市郡田原本近隣七ヶ村に5千石の知行を与えられ、従五位下・遠江守に叙任。豊臣姓を下賜。
片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。

官位

加藤清正の官位について。

  • 1585年(天正13年)、従五位下・主計頭に叙任。
  • 1603年(慶長8年)、豊臣姓を下賜
  • 1605年(慶長10年)、従五位上・侍従兼肥後守に叙任。のち従四位下(年代わからず)。
  • 1910年(明治43年)、従三位を追贈。

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

従五位下・主計頭に込めた秀吉の思い

加藤清正というと「虎退治」などのエピソードにより勇猛果敢の豪将のイメージがある・・・。

秀吉は清正に豊臣政権の財務官僚としての役割を期待した。その思いが「従五位下・主計頭」という官位に込められている。

清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州平定に参加しているが、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援である。

小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書には、加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であることが記述されている。

「清正記」などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは全て創作である。

記録で確認すると、

  • 豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官。
  • 九州平定後の上使としての戦後処理。
  • 尾藤知宣改易後、闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまでの代官

などがある。

羽柴秀吉VS徳川家康。小牧・長久手の戦い、連動して全国規模に
小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉が不利でしたが織田信雄との和議がすべてではないようでしょうか。負けなかった徳川家康の強さも知れ渡ります。秀吉は家康を臣従されるのには苦労します。妹を家康の正室に、母の大政所を人質に出します。秀吉は小牧・長久手の戦いを契機に朝廷にも接近します。やがて関白までになり天下統一を果たします。

加藤清正の装具

加藤清正は身の丈六尺三寸(約190cm)の大男と伝えられている。

  • 長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと):浮世絵の武者絵では、この兜と蛇の目紋は清正を表すシンボルとなった。
  • 片鎌槍:天草一揆討伐で所持する十文字三日月槍の片刃が折れてしまったが、片鎌槍と称して愛用を続けたという伝説がある。
  • 題目旗:熱心な法華宗信者であったため、白地に朱色で題目(南無妙法蓮華経)を書いた旗を戦場で翻らせた。
  • 帝釈栗毛(たいしゃくくりげ):清正の愛馬。帝釈とは仏教の守護神帝釈天のこと。
  • 金小札色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく):頭には熊毛をあしらい、胸部と背部に片肌を脱いであばら骨の浮いた肉色の体を覗かせた具足で、屍を思わせる恐ろしげなデザインで有名。

片鎌槍は朝鮮の役での虎との戦いで噛み折られてしまったという伝説もある。

また片鎌槍は八十姫の輿入れ道具として持ち込まれ、紀州・徳川家に伝えられた。

築城の名手

加藤清正は藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られている。

熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。

飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んでいる。

熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用として使われている遺構も少なくない。

熊本城

熊本城といえば1877年(明治10年)の西南戦争の舞台になっている。

「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」

これは、田原坂の戦いをうたった有名な歌だが、「越すに越されぬ」は攻撃側の官軍だ。官軍は結局、別経路を進み田原坂を攻略出来ていない。

西郷隆盛率いる薩軍は熊本城の包囲を解き退却。西郷は「官軍に負けたのではなく、清正公に負けた」と言っている。

熊本城は難攻不落だった。みなさんも御存知の通り、西郷隆盛率いる薩軍は熊本城を攻略できず、薩摩に退却し敗れている・・・。

清正井戸

「真田丸」第16話「表裏」感想。豊臣家の癒やし、大和宰相・羽柴秀長,アイキャッチ画像

明治神宮の「清正井(きよまさのいど)」は、近年パワースポットとして有名になり、待ち受け画面にすれば幸運が訪れると話題になりました。

この場所は江戸時代、加藤家の下屋敷があったようです。子・忠広が使用していたのは間違いないようですが、清正が住んでいたかはわかっていません。

加藤清正という人、いろんなエピソードがあります。

真田丸では新井浩文が演じる

大河ドラマ「真田丸」では加藤清正を新井浩文が演じている。

登場したばかりですが、どんな加藤清正を演じてくれるのか楽しみデス!

【真田丸】第34話「挙兵」佐吉が虎之助に耳打ちした内容とは?
【真田丸】第34話「挙兵」の感想記事でも書いたが、石田三成(山本耕史)が加藤清正(新井浩文)に耳打ちした内容を掘り下げて考えてみる。真田丸での三成と清正の関係性は、今までのドラマの描かれ方と少し違う。もちろん対立はしているのだが、何かが違う。タイトルは、あえて佐吉と虎之助の名称を使ってみた。
【真田丸】福島正則と加藤清正の表情は冴えない。何を意味する?
第37話「信之」で福島正則(深水元基)の表情は冴えなかった。今までは、血気盛んな表情をしていた。管理人はどうしたんだろうと思った。そしてもう一人の加藤清正(新井浩文)。この男は石田三成(山本耕史)と袂を分けて以来、終始表情が冴えない。秀吉の子飼いの代表格の二人について書きたいと思う・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

加藤清正 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

調べてみると加藤清正という人物、やはり只者ではない!ますます好きになりました。

そのへんが「真田丸」で描かれればいいのですが・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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