【真田丸】福島正則と加藤清正の表情は冴えない。何を意味する?

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この記事の所要時間: 654(文字数:4,145文字)

第37話「信之」で福島正則(深水元基)の表情は冴えなかった。今までは、血気盛んな表情をしていた。管理人はどうしたんだろうと思った。そしてもう一人の加藤清正(新井浩文)。この男は石田三成(山本耕史)と袂を分けて以来、終始表情が冴えない。秀吉の子飼いの代表格の二人について書きたいと思う・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

第37話「信之」での福島正則(深水元基)と加藤清正(新井浩文)の表情が気になったので記事投稿したいと思う。

それではいってみよう!

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市松と虎之助の表情が冴えない

福島正則(深水元基)と加藤清正(新井浩文)の表情は冴えなかった。特に正則(深水元基)の表情が気になった。

この放送回、正則(深水元基)のセリフはなった。表情のアップのみ。これは何を意味する?

そして清正(新井浩文)・・・。

福島正則の表情

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易,アイキャッチ画像

第37話「信之」で福島正則(深水元基)の登場シーンは1回。

最初は、安房守(草刈正雄)と左衛門佐(堺雅人)が大坂城の徳川内府(内野聖陽)に呼ばれ、廊下でじっと見つめてるというシーンであった。

表情のアップだけで、セリフはない。

管理人の気のせいかもしれないが、意味ありげな表情に見えた・・・。

正則(深水元基)は、関ヶ原の戦いに東軍として参加しているので勝者側である。

だけど、なんだろう、あの冴えない表情は。とても勝者側の表情ではない・・・。

「真田丸」第37話「信之」感想。三成ロスと刑部ロス~九度山流罪
安房守と左衛門佐の処遇は九度山流罪。真田伊豆守と本多忠勝の尽力により死罪だけは免れた。そして真田家は伊豆守を当主として残る。上田の領地も伊豆守が治める。犬伏の別れは、無駄ではなかった・・・。とにもかくにも真田家は残る。そして大坂城にて左衛門佐は、治部殿と刑部殿の最期を聞かされる・・・。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

福島正則の日記

確証がある話ではないが、福島正則は晩年の日記に「石田治部を討ったのがすべての間違いであった」と書いた部分を炭で消したなんて話もある。

これは正則が三成を討ったことを後悔していたことになる。

いい話です!

加藤清正の表情

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い,アイキャッチ画像

そして加藤清正(新井浩文)。

前述してるが、この男は石田三成(山本耕史)と袂を分けて以来、終始表情が冴えない。

この男の場合、福島正則(深水元基)ほど単純じゃない。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

石田三成の最期

第37話「信之」で加藤清正(新井浩文)のシーンは、三成(山本耕史)の正室・うた(吉本菜穂子)を左衛門佐(堺雅人)に会わせるというものであった。

うた(吉本菜穂子)は、清正(新井浩文)を頼った。清正(新井浩文)に何かを感じているのか?

もしくは治部殿(山本耕史)が生前、うた(吉本菜穂子)にだけは、清正(新井浩文)のことを話していたとか。

「何かあったら、虎之助(新井浩文)を頼れ・・・」みたいなことです。いづれにしても想像は膨らんでしまう。

うた(吉本菜穂子)は、自分が見た三成(山本耕史)の最期を語った。

何度も何度も繰り返した「あのお方は、豊臣家のことしか考えておりませんでした」が耳に残る。

どう考えても、治部殿(山本耕史)は豊臣家のことしか考えていなかった。

そして三成(山本耕史)の最期は美しかった!

石田三成の関ヶ原敗戦後の逃走ルート・最期・逸話、大谷吉継の死
大河ドラマ「真田丸」第37話「信之」で石田三成と大谷吉継の最期が回想シーンとして描かれるはずだ。はずだというのは第36話「勝負」で関ヶ原の戦いは「超高速関ヶ原」として描かれてしまったからである。二人の記事は、以前に書いているが、最期というテーマで書きたいと思う。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

第14話「大坂」

うた(吉本菜穂子)と清正(新井浩文)といえば、第14話「大坂」が思い出される。清正(新井浩文)、初登場の放送回だ!

清正(新井浩文)が酔いつぶれ、治部殿(山本耕史)にくだをまく、あのシーン。懐かしい・・・。

うた(吉本菜穂子)と清正(新井浩文)の絡みは、あれ以来だろう。

それを治部殿(山本耕史)の最期という大事なシーンに持ってきたところが凄い!

大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」感想。出奔した石川数正
石川数正出奔により徳川家康は真田攻めから撤退した。数正出奔の背後には真田昌幸の影が。弟・信尹をつかって石川数正を調略した。上杉景勝の上洛に同行することになった源次郎信繁。そこで石田治部少輔三成と出会う。三成は直江兼続がいい人に見えるくらい高飛車だった。源次郎信繁は大坂城に驚き、いよいよ関白・秀吉に面会するのだが・・・。

佐吉が虎之助に耳打ちした内容

そして第34話「挙兵」で治部殿(山本耕史)が伏見城を去る時、虎之助(新井浩文)に耳打ちした内容は何だったのか?

管理人が思っていることは記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

【真田丸】第34話「挙兵」佐吉が虎之助に耳打ちした内容とは?
【真田丸】第34話「挙兵」の感想記事でも書いたが、石田三成(山本耕史)が加藤清正(新井浩文)に耳打ちした内容を掘り下げて考えてみる。真田丸での三成と清正の関係性は、今までのドラマの描かれ方と少し違う。もちろん対立はしているのだが、何かが違う。タイトルは、あえて佐吉と虎之助の名称を使ってみた。
「真田丸」第34話「挙兵」感想。七将襲撃事件~直江状・会津征伐
治部殿は徳川屋敷襲撃を画策したが未遂に終わった。暫くの間、伏見・石田屋敷で謹慎していたが、前田利家の尽力により謹慎は解かれた。その前田利家の寿命は尽きようとしている。この時期、利家は豊臣家の精神的支柱でもあった。秀吉の遺言により、秀頼の後見役であり、豊臣家諸将に対して睨みもきいた。しかし槍の又左は・・・。

史実での加藤清正

史実での加藤清正も考えてみる。

石田三成襲撃事件・七将襲撃事件では、確かに清正は三成を襲撃する側にいる。

その後は少しの間、徳川家康と距離をおいた時期もあったようである。

清正は家康により、事実上の謹慎という形で会津征伐、関ヶ原の戦いの参加を許されていない・・・。

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。
会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。

そして真田丸での清正(新井浩文)は、徳川屋敷警護・七将襲撃事件でも、複雑な表情をしていた・・・。

大一大万大吉

これも確証がある話ではないが、加藤清正の逝去後、副葬品に「大一大万大吉」印が入った布に包んだ位牌を入れたなんて話もある。

福島正則に続いて、いい話です!

市松と虎之助の表情の意味

ここまで市松と虎之助のことを書いてきた。

キーワードは「佐吉」

特に福島正則(深水元基)。

左衛門佐(堺雅人)と目があったときの表情は、左衛門佐(堺雅人)に対するすまなさというよりは、結果的に佐吉(山本耕史)を討ってしまったという「後悔の念」だろうと思う。

そして治部殿(山本耕史)のいない、豊臣家はどうなっていくんだろうという不安な気持ちが、あの表情だろう・・・。

管理人は、そう思ってやまない。

いや、市松と虎之助に、そういう気持ちがあったと思いたい・・・。

第38話「昌幸」

第38話「昌幸」では、真田昌幸(草刈正雄)の最期が描かれる。

おそらく板部岡江雪斎(山西惇)・本多平八郎忠勝(藤岡弘、)、そして加藤清正(新井浩文)も・・・。

あの耳打ちした内容は明らかになるのだろうか・・・??

託されたと決めつけているが、佐吉(山本耕史)から虎之助(新井浩文)は、きっと何かを託された。

佐吉(山本耕史)に託された虎之助(新井浩文)の最期とは??佐吉(山本耕史)の思いとは???

清正(新井浩文)の最期では、治部殿(山本耕史)関連を期待したい・・・。

板部岡江雪斎。北条三代の外交僧、北条滅亡後は秀吉・家康に仕える
北条三代(氏康・氏政・氏直)に仕えた外交僧・軍師である板部岡江雪斎。後北条家滅亡後は豊臣秀吉・徳川家康に仕えている。千利休の高弟・山上宗二と交流があり、和歌・茶の湯にも造形が深かったと言われる。愛刀の江雪左文字は国宝であり、執権・北条氏(北条時行)の子孫とされる。
本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

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まとめ

市松と虎之助、そして佐吉・・・。

三人は、秀吉の子飼いとして長浜で少年期を過ごした。

長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。

佐吉に言いたいことはあっただろうが、佐吉がいなくなって二人は何かに気づいたに違いない。

あの時、佐吉は何と戦っていたかを。

そして、こんなはずでは・・・、と・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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