真田信綱。信繁の「左衛門佐」に込める思い、血染めの陣羽織は有名

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真田信綱。父は真田幸隆。母は恭雲院(河原隆正の妹)。「武田二十四将」にも数えられる。官途は「左衛門尉」。これにより真田信繁(幸村)の官職「左衛門佐」の由来とされる。信綱のように剛勇になってほしいという弟・真田昌幸の期待があったといわれる。

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真田幸隆(幸綱)の嫡男で、真田昌幸の長兄・真田信綱についての記事投稿です。

それではいってみよう!

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真田信綱

真田信綱(さなだのぶつな)。1537年(天文6年)~1575年(天正3年)5月21日。父は真田幸隆。母は恭雲院(河原隆正の妹)。

武田家の騎馬200騎持の侍大将。「武田二十四将」にも数えられる。官途は「左衛門尉」。

幼名は源太。別名は源太郎。

兄弟は昌輝、昌幸、信尹、金井高勝、清鏡?。

正室は高梨政頼の娘・(於北様)(井上次郎座衛門の娘とも)。

子は与右衛門、信興、信光、清音院殿(真田信幸正室のち側室)。

墓所は長野県上田市真田町の信綱寺、設楽ヶ原。戒名は信綱寺殿天室道也大禅定門、信綱寺殿大室道也大居士。

真田信尹。兄・真田昌幸の本家に尽力し、旗本・真田家を興す。
真田幸綱(幸隆)の四男であり、同母兄には信綱・昌輝・昌幸がいます。甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、加津野市右衛門尉信昌と称する時期もあった。武田家滅亡後は、真田本家のために尽力する。自身は、北条・徳川・蒲生・ふたたび徳川に仕える。大坂の陣では豊臣側の真田信繁を誘ったり、信繁の首の確認をする逸話が残されている。

真田信綱の家系

甲斐国守護・武田氏に仕える他国衆・真田幸隆(幸綱)の嫡男。

母は真田家の譜代家臣・河原隆正の妹。恭雲院。「仙台真田代々記」では飯富虎昌の娘とされる。

真田家の祖、真田幸隆と真田昌幸親子の官位を調べた!
真田家の祖といわれる真田幸隆、真田昌幸親子の官位について調べてみました。真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。そして「真田丸」で描かれてる真田昌幸親子の官位という視点から記事を投稿します。
恭雲院。真田幸綱(幸隆)の正室、昌幸の母。「真田丸」では「とり」
「真田丸」では「とり」という名で女優・草笛光子が演じる。真田幸綱(幸隆)の正室。子には真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝。1582年(天正十年)の武田家滅亡後、滝川一益・木曽義昌・徳川家康の人質になっている。1585年(天正13年)頃に解放され、真田家へもどったとされる。

正室は「於北様」と呼ばれ、北信濃の旧族・高梨政頼や井上次郎座衛門の娘とする説がある。

子に真田与右衛門、真田信興、真田信光らがいる。

与右衛門は越前松平家へ仕官。信光は孫との説もある。孫の場合は、信興の息子か?。

「滋野世記」によると、娘は信綱の弟・真田昌幸の嫡男・信之の室(はじめ正室、のち側室)となったといわれる。清音院殿。

清音院殿、真田信幸(信之)の正室で信吉を産む。真田丸では「こう」
真田丸では「こう」という名前で、女優・長野里美が演じている清音院殿。清音院という名前は戒名からである。真田信幸(信之)の正室で長男・信吉を産みます。父は真田信綱。母は於北殿(高梨政頼の娘または妹)。のちに信吉は沼田城主になっている。大河ドラマ・真田丸での「おこう」は病弱ではあるが、魅力的なキャラクターになっています。
真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。

大河ドラマ「真田丸」流にいえば、

  • 母:とり(草笛光子)
  • 娘:こう(長野里美)
  • 弟:真田安房守昌幸(草刈正雄)
  • 弟:真田信尹(栗原英雄)

真田信綱の生涯

「信綱寺殿御事蹟稿」から1537年(天文6年)生まれであることは明らかなようです。

信綱は早い時期から同母弟の昌幸・信尹と同じく、武田信玄に出仕していたと考えられている。

確実な初出史料は真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸隆と連名の連署。前半生の大半が父・幸隆と重なるため、信綱の記録はほとんど見られない。

父と連署であることから、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたとされている。

1561年(永禄4年)、第4次川中島の戦い。父・幸隆とともに妻女山攻撃の別働隊に参加。

1563年(永禄6年)の岩櫃城攻略の前後から、父・幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっている。

世代交代の時期だが、

1572年(元亀3年)、「信玄惣人数書上」によると幸隆に代わって信濃先方衆の筆頭となる。この頃には世代交代が済んでいると推測。

史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた1567年(永禄10年)までには、継承が行われていたと考えられている。

  • 1568年(永禄11年)、駿河国攻め。弟・昌輝とともに先鋒を担う。
  • 1569年(永禄12年)、三増峠の戦い。弟・昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げる。

近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。

1572年(元亀3年)信玄の西上作戦に従軍。「三方ヶ原の戦い」では武田軍の先手を務めて奮戦。

主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍。

資料は「甲陽軍鑑」。

真田信綱の最期

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真田信綱の最期について。

  • 1574年(天正2年)5月、父・幸隆が死去。正式に真田家の家督を相続。
  • 1575年(天正3年)5月21日、長篠の戦い。鉄砲部隊の銃撃により弟・昌輝とともに戦死。享年39。

長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫る。

武田勝頼は、真田家の家督を信綱の幼児らが受け継ぐことを認めなった。

真田宗家の家督は、武藤家を継いでいた同母弟・武藤喜兵衛(真田昌幸)が継承した。

法名「信綱寺殿天室道也大禅定門」。

左衛門尉

弟・真田昌幸も信綱の豪勇を尊敬していたといわれる。

昌幸の次男・真田信繁(幸村)の「左衛門佐」は信綱の「左衛門尉」からで、信綱のように剛勇になってほしいという昌幸の期待があったといわれる。

真田信繁の官職・左衛門佐により衛門府を調べる。「金吾」の由来も
真田信繁(幸村)の官職・左衛門佐により衛門府を調べてみました。歴代任官者には小早川隆景、金吾中納言で名高い小早川秀秋は左衛門督、「左衛門尉」任官者には源義経・楠木正成らがいる。「金吾」は衛門府の唐名である。

信綱は初陣・信濃小岩岳城攻めで一番槍の功名を挙げるなど豪勇の士であった。

「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」

と評されている。

血染めの陣羽織

真田信綱を討ったのは徳川方・渡辺半十郎政綱(渡辺半蔵守綱の実弟)だと言われる。

しかし織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉ではないかとする説も存在する。

信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったとされる。

この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵。

北沢最蔵と白川勘解由は、信綱を追って殉死。忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられた。

信綱寺(しんこうじ)は、信綱の弟・昌幸が位牌所として建立した寺。南には古城と呼ばれる尾根がある。

この場所は、中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田信綱 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

真田信綱の「左衛門尉」と真田信繁(幸村)の官職「左衛門佐」が関連があることは知りませんでした。

本当かどうかはわかりませんが、いい話です!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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