真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立

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この記事の所要時間: 51(文字数:3,013文字)

真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田信幸(信之)の次男・真田信政について記事投稿します。

それではいってみよう!

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真田信政

真田信政(さなだのぶまさ)。1597年(慶長2年)11月~1658年(万治元年)2月5日。父は真田信幸(信之)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。

兄弟は信吉、信重。信濃松代藩主。官位は従四位下・侍従兼大内記。

正室は稲垣重綱の娘。側室は浜松の局、小野国子(2代目小野お通)。

子は信就、信守、信武(大学)、信福(四男、早世)、幸道、娘(遠山政亮正室)、娘(小出有重正室)、娘(土岐頼長室)、娘(鎌原重俊室)、娘(青山忠雄正室)ら。

墓所は長野県長野市松代町松代の長国寺。戒名は円陽院殿威良一中大居士。

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝
本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。
小野お通。詩歌・琴・書画などに秀でた才女、真田信之との関係?
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。

父・信之との対立

1597年(慶長2年)11月、真田信幸(信之)の次男として生まれる。母は小松姫(本多忠勝の娘)。

  • 1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに出陣。補佐したのは矢沢頼康。
  • 1617年(元和3年)6月、従五位下・大内記に叙任。

大坂の陣では、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄・信吉と共に敗走。小山田茂誠も息子・之知と共に従軍。

官位は年月日不詳ながら従四位下に昇叙、侍従を本官に大内記を兼任。

真田信吉。大坂の陣で逃走、松代藩・沼田城主。従五位下・河内守
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。
矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は矢沢薩摩守頼綱、第一次上田合戦で奮闘
矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は猛将・矢沢薩摩守頼綱。ドラマでは真田家の良きサポート役として描かれている。真田源次郎信繁が上杉景勝の人質に出される際には警護役として同行している。第一次上田合戦では徳川家臣・大久保忠世を震え上がらせたエピソードも残っている。真田家筆頭家老であり、まさに矢沢家あっての真田家である。
真田信繁(幸村)が最後の手紙を送った義兄・小山田茂誠とは?
小山田茂誠は真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)の義兄になります。真田信繁(幸村)の最後の手紙が小山田茂誠に宛てた手紙になります。正室は真田昌幸の長女で、信幸(信之)、信繁(幸村)の姉・村松殿。小山田信茂刑死後、いったんは北条氏政に仕えるが、その後真田昌幸、信幸(信之)に仕える。そして真田松代藩の次席家老を代々つとめる。

  • 1622年(元和8年)10月、父・信之が松代城転封。領内で1万7000石を分知され大名に列する。
  • 1634年(寛永11年)、沼田城主である兄・信吉が死去。甥・熊之助が相続。

幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。

  • 1639年(寛永16年)、甥・熊之助が早世。沼田藩主となる。
  • 1656年(明暦2年)、父・信之が隠居。松代藩の家督を相続。

沼田藩主となった時、沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟・信利に分与、領有していた松代藩内分の1万7000石は弟・信重に譲った。

真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

1658年(万治元年)2月5日、家督を相続して、わずか2年で死去。

なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

実のところ、父・信之は何度も幕府に隠居願いを出していた。将軍・徳川家綱が幼少などの理由で認められなかったのである。

信之と信政はすれ違ったままであった・・・。

信政の遺言状には、父・信之のことは一切書かれていなかった。

信政の後継

真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立,画像01

信政は、長男・信就を故あって相続対象から外した。

1645年(正保2年)、次男・信守は異母弟の三男・信武(大学)を殺害して自刃。

四男・信福は夭折するなど後継者に恵まれなかった。

死の直前に生まれたばかりの幼少の六男・右衛門(幸道)を後継指名している。

支藩で幸道従兄の沼田藩主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あった。

最後には、信政の遺言状や祖父・信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門(幸道)の相続が決定となった。

「真田丸」では高畑裕太の予定

「真田丸」で真田信政は、高畑裕太の予定であった。

例の事件で、全てが白紙になった。せっかくの親子共演のはずが・・・。

一度、撮影も行われていたらしい。シーンは代役を立てて撮り直し。

母・高畑淳子は真田昌幸の正室・薫役で出演中。真田丸に関しては、今後も出演するらしい。

ちなみに「スタジオパークからこんにちは」の出演は辞退している。

山手殿(寒松院)。真田昌幸の正室、「真田丸」では薫。
「真田丸」では薫という名で女優・高畑淳子が演じる。真田昌幸の正室・山手殿。子は、長女の村松殿、嫡子の真田信幸(信之)、次男の真田信繁(幸村)。昌幸が九度山に幽閉されたおりには同行せず、信幸(信之)が引き取る。すぐに出家して寒松院と改める。出自については諸説ある。「真田太平記」では、菊亭(今出川)晴季の娘。

代役は大山真志に決定

「真田丸」で真田信政を演じるのが大山真志に決定した。

例の事件があった後であるが、大山真志さんには頑張ってほしい。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田信政 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

真田信幸(信之)・信繁(幸村)兄弟と比べると、信吉・信政兄弟は物足りない。比べること自体が間違ってるのかもしれないが。

もしかしたら父・信之が長寿で名君というのは、のちの世代にとって悲劇だったもかもしれない。

のち真田家からは、そんな気がしてなりません・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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