第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川

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天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田昌幸の評価を大いに高めた第一次上田合戦についての記事投稿をします。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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天正壬午の乱の和睦条件

1582年(天正10年)10月29日、徳川家康、北条氏直が和睦し天正壬午の乱は終決する。家康が勝手に真田家の沼田割譲を氏直に約束。交換条件は北条家の信濃佐久郡であったのだが・・・。

1583年(天正11年)から真田昌幸は、上田城築城を開始する。この間も真田家と北条家は、沼田領や吾妻領を巡り争っていた。

1585年(天正13年)4月、徳川家康が甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求める。昌幸は「沼田領」は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由に拒否する。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。

ふたたび上杉景勝に臣従

真田昌幸は、徳川家との関係悪化により、上杉景勝を頼っていた。

1585年(天正13年)7月15日、正式に昌幸の次男・真田信繁(幸村)が上杉景勝に人質として仕える。コレより少し前、真田家は上杉景勝に臣従。

真田家は、徳川家康に臣従していたのだが、沼田領問題を巡り関係はギクシャクした。真田家が上杉景勝に臣従するのはこれで2度目である。

真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

第一次上田合戦

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川,画像01

この戦いに限り、神川合戦、上田・神川の合戦とも言われる。

1585年(天正13年)7月、浜松城に帰還した徳川家康は、真田昌幸が上杉景勝に通じたことを知る。これにより真田討伐を決意。

1585年(天正13年)閏8月、家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を派遣。甲斐から諏訪道を北国街道に進み、真田氏の本拠・上田城に侵攻。第一次上田合戦である。

対する真田勢は、約1200人といわれ真田昌幸は上田城、嫡男・信幸(信之)は砥石城、矢沢頼康は矢沢城に上杉援軍と籠城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川勢は、二の丸まで進むが反撃を受け撃退。後退の際に城方の追撃を受け、矢沢頼康もこれに加勢している。砥石城の信幸(信之)は徳川勢を横合いから攻めた。徳川軍の多数の将兵は、神川で溺死した。

真田家の戦法は地の利を活かしたものであり、実に巧みであった。徳川軍の戦死者は1300人であるのに対して、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだと言われている。

閏8月3日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(のち真田氏に臣従)が籠城する丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。

閏8月28日、家康は援軍(井伊直政、大須賀康高、松平康重)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は上田より撤退。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返す。

1585年(天正13年)11月、譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。

矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は矢沢薩摩守頼綱、第一次上田合戦で奮闘
矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は猛将・矢沢薩摩守頼綱。ドラマでは真田家の良きサポート役として描かれている。真田源次郎信繁が上杉景勝の人質に出される際には警護役として同行している。第一次上田合戦では徳川家臣・大久保忠世を震え上がらせたエピソードも残っている。真田家筆頭家老であり、まさに矢沢家あっての真田家である。
鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死
忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。

第一次上田合戦後の真田家の評価

第一次上田合戦において徳川家康の真田家に対する評価は高まり、結果として本多平八郎忠勝の娘である小松姫を真田信幸(信之)へ嫁がせて懐柔するきっかけとなる。

武田の旧臣から独立した信濃の大名として豊臣系の大名から評価、認知されるようになる。

真田家は、その後豊臣秀吉に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。

持ちこたえる沼田城

第一次上田合戦において、沼田城は北条方の藤田氏邦に攻められながらも城代・矢沢薩摩守頼綱が死守。

1585年(天正13年)9月から1586年(天正14年)5月までの間、北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、すべて撃退している。

矢沢薩摩守頼綱。真田幸綱(幸隆)の弟、真田昌幸の叔父。
矢沢頼綱というとドラマの影響からか、俳優・加藤嘉の顔が浮かんでしまう。矢沢頼綱は真田幸綱(幸隆)の弟であり、真田昌幸の叔父になる。特に沼田城代としての功績が大きい。北条氏の攻撃を何度も退けている。矢沢家は真田家臣団の最高位にあり、明治に至るまで筆頭家老であった。知行高は2,000石。

背後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)

五七桐,画像

第一次上田合戦の背後には、関白・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の影が見え隠れしている。

秀吉は厳密に言うとこの時期、関白ではあるが「まだ豊臣ではない」。1585年(天正13年)7月11日に関白になっているが、豊臣を賜るのは1586年(天正14年)9月9日である。

1585年(天正13年)11月、秀吉は徳川家康の譜代の重臣・石川数正を調略して、自分の元に出奔させている。真田を利用して、家康の勢力拡大を阻止している。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

上田合戦 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

真田昌幸も凄いが、シブいところでは昌幸の叔父・矢沢薩摩守頼綱はすごい!!北条家の猛攻を何度も受けながら沼田城を死守しているなんて・・・。

のちに矢沢家は信幸(信之)の真田家の筆頭家老になります。矢沢あっての真田家ですね~。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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