本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者

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この記事の所要時間: 722(文字数:4,424文字)

本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

管理人の頭のなかを整理するために、真田家の立ち位置を記事投稿します。。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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沼田城、岩櫃城を奪回

武田氏滅亡後、真田昌幸は、織田信長の家臣になる。本領は安堵され、立ち位置は関東経営を任された滝川一益の与力武将となる。

1582年(天正10年)6月2日に明智日向守光秀の謀反により本能寺の変で信長が横死する。信長から旧武田領の統治を任されていた織田家家臣らは、相次いで逃走。河尻秀隆にいったては、殺害された。

無主となった旧武田領を巡り、徳川家康、上杉景勝、北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた。これを天正壬午の乱という。

当然、真田家もコレに巻き込まれる。ここから真田家の激動が始まる!

1582年(天正10年)6月19日、神流川の戦いで滝川一益が北条氏直に破れた。真田昌幸は、諏訪まで一益を送ってるんですねー。。

これで上野までも無主になる。6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回。嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固める。これで武田時代の領地を回復する。

真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

上杉景勝、北条氏直に臣従

上杉弾正少弼景勝も北信濃に侵攻し、長沼城に入る。これが6月24日。すぐに上杉景勝に臣従。

が7月9日には北条氏直に降る。この「ほへ」っと思うくらいの変わり身のはやさである(笑)。

北条氏直は、上杉景勝との決戦を避け、徳川家康が攻め込んでいる甲斐に向かう。昌幸は、松田憲秀とともに殿として残っている。が8月9日、上杉景勝は、越後に帰国。

徳川家康に臣従

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真田昌幸は、9月25日、沼田城に帰還する。突如、徳川家康方になり、北条氏直を裏切る。

北条氏を裏切った証として、10月19日に禰津昌綱を攻める。信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行う。藤田氏邦に沼田城を攻められるが、守り切る。

この時期、徳川家康の力を利用し、上田城を築城して、城下町の整備にあたっている。

1584年(天正12年)3月に小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力を率いて尾張に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留。

昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を計略を以て攻めさせ、沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返している間に、小県郡を完全掌握するために謀略を用いて室賀氏を滅ぼした。

これにより沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握。

ふたたび上杉景勝に臣従

1584年(天正12年)10月29日、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は、和睦を選択する。和睦の条件として、家康は氏直に上野国の沼田領を譲渡するという条件を出す。

これが真田家を刺激する。当然である。そもそも沼田は、真田家が自力で獲得した領地であり、沼田割譲についての代替地が不明瞭であった。

徳川家康は、1584年(天正12年)12月に羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いの和議を結んで尾張から撤兵する。

1585年(天正13年)4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。しかし昌幸は、コレを拒否!

結果、徳川、北条と敵対していた越後の上杉景勝にふたたび臣従する。7月15日には次男の真田信繁(幸村)を人質にする。

上杉景勝の背後には、チラチラ、羽柴秀吉の影が見え隠れする。。羽柴秀吉は、清須会議の後、織田家臣内の足場を固め、天下統一への道を駆け上ろうとしていた。

真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

豊臣秀吉に臣従

1585年(天正13年)閏8月、徳川家康と北条氏直は、真田領の制圧を目論む。

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させる。

真田昌幸は、わずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている。これが「第一次上田合戦」である。

その後も、小競り合いが何度かあるも、結局、真田家は負けなかった。

これにより真田家は、武田の旧臣から独立した信濃の大名として豊臣系の大名から評価、認知されるようになる。

1585年(天正13年)冬、次男の真田信繁(幸村)が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕。よって真田昌幸は豊臣家に臣従。

1586年(天正14年)5月25日には北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退。7月、家康が昌幸征伐のために甲府に出陣。が、8月7日に秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。

その代わりに11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となる。

1587年(天正15年)3月18日に昌幸は、小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見。その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となる。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田家の年表

真田信繁(幸村)と六文銭-アイキャッチ画像

最後に本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田家の年表というか時系列をまとめます。

  • 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。
  • 1582年(天正10年)6月19日、神流川の戦いで滝川一益が北条氏直により敗走。
  • 1582年(天正10年)6月21日、叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回。嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固める。
  • 1582年(天正10年)6月24日、上杉弾正少弼景勝が北信濃に侵攻。すぐに上杉景勝に臣従。
  • 1582年(天正10年)7月9日、北条氏直に降る。
  • 1582年(天正10年)8月9日、北条氏直は、上杉景勝との決戦を避け、徳川家康が攻め込んでいる甲斐に向かう。昌幸は、松田憲秀とともに殿として残る。が上杉景勝は、越後に帰国。
  • 1582年(天正10年)9月25日、真田昌幸が沼田城に帰還。突如、徳川家康方になる。
  • 1582年(天正10年)10月19日、禰津昌綱を攻める。
  • 1582年(天正10年)10月29日、徳川家康、北条氏直が和睦。家康が勝手に真田家の沼田割譲を氏直に約束。
  • 1583年(天正11年)頃、上田城築城開始。
  • 1584年(天正12年)3月、小牧・長久手の戦いがはじまる。
  • 1584年(天正12年)12月、徳川家康が羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いの和議を締結。
  • 1585年(天正13年)4月、徳川家康が甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求める。
  • 1585年(天正13年)7月15日、正式に昌幸の次男・真田信繁(幸村)が上杉景勝に人質として仕える。コレより少し前、真田家は上杉景勝に臣従。
  • 1585年(天正13年)閏8月、第一次上田合戦。
  • 1585年(天正13年)末、上田城が完成。
  • 1586年(天正14年)5月25日、北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退。
  • 1586年(天正14年)6月、上杉景勝が上洛する折に、信繁(幸村)は大坂城の秀吉に出仕。これより信繁(幸村)は秀吉の人質となる。真田家は秀吉に臣従。
  • 1586年(天正14年)7月、徳川家康が昌幸征伐のために甲府に出陣。
  • 1586年(天正14年)8月7日、徳川家康が豊臣秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。
  • 1586年(天正14年)11月4日、豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名となる。
  • 1587年(天正15年)3月18日、真田昌幸は、小笠原貞慶とともに駿府で徳川家康と会見。その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となる。

細かいところは、まだあるんですが、大まかにまとめてみました。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田昌幸 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

以上、真田家を取り巻く出来事を本能寺の変から豊臣秀吉に臣従するまでをまとめてみました。なりよりも管理人の頭の中が整理されました(笑)。

真田昌幸が、徳川家康と決別するまでが、印象に残りました。家康を牽制しながら、機会を伺っていたのでしょうね。。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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