真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。

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沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

以前、真田家から見た沼田領問題を記事投稿したのですが、沼田城についても調べてみました。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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真田家以前の沼田城

真田家以前の沼田城の支配者。年代は省略してます。

1532年に 沼田顕泰により築城され、沼田氏の拠点になります。

沼田顕泰⇒北条(沼田康元)⇒長尾景虎(上杉謙信)の沼田三人衆(上野家成、河田重親、松本景繁)⇒上杉謙信(本庄秀綱)⇒北条(猪俣邦憲、金子泰清)

これだけ支配者が変わってます。

真田家支配による沼田城

真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八郎岩。,画像01

1578年、上杉謙信の死後に起こった御館の乱により沼田城は北条氏によって制圧された。城代は、猪俣邦憲、金子泰清。

同年成立した甲越同盟によって、上杉景勝が武田氏の沼田攻略を承認し、真田昌幸が攻略の命を受ける。ここではじめて真田氏が登場。

1580年に昌幸が城代の金子泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入ってこれを無血開城させ、武田氏が沼田を支配化におく。

同年、北条方と由良氏の支援を得た沼田顕泰の子・沼田景義が沼田城奪還を目指して挙兵する。が、昌幸の謀略により、泰清に殺害される。これによって沼田氏は滅亡。

1582年(天正10年) 3月、織田信長の甲州征伐の功により、滝川一益が上野国一国、信濃佐久郡、小県郡を与えられる。沼田城の城代は、滝川家臣・滝川益重になる。

1582年(天正10年) 6月、天正壬午の乱において、主君が北条氏になった真田昌幸が沼田城を支配する。沼田城は、ふたたび真田家が支配!

1582年(天正10年) 10月、天正壬午の乱の徳川氏と北条氏の和議の条件で沼田領帰属問題が持ち上がる。この時点での真田家の主君は、徳川家である。

その後、真田家は、上杉氏の傘下に入る。第一次上田合戦、北条氏による度重なる沼田城侵攻を退ける。

1589年、豊臣秀吉の裁定により沼田城は、北条氏の支配となり、猪俣邦憲が再び城代。が、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐のきっかけになる。

1590年、北条征伐の戦後処理において、沼田城は昌幸の嫡男・真田信幸(信之)が支配する。昌幸の上田領を本家、信幸(信之)の沼田領が分家となる。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の沼田領裁定により、真田家と北条家が争ってきた沼田領問題は解決したかに見えた。しかし名胡桃城奪取事件は起きた。名胡桃城奪取事件が本当に起きたかどうかは別にして、結果的に小田原征伐は決行された。秀吉の沼田領裁定から名胡桃城奪取事件、そして小田原征伐に至るまでを記事投稿する。

関が原の戦いから沼田藩廃藩まで

1600年、関ヶ原の戦いの勲功で、東軍についた真田信之が父・昌幸の旧領である上田領も継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩。信之の本拠は、引き続き沼田城である。

1615年の大坂夏の陣を契機に、信之は本拠を上田城に移す。沼田城は、長男・信吉が城主となる。信之は大阪冬の陣、大坂夏の陣には病気を理由に参加してません。

1622年、信之が松代藩13万石へ加増移封。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の分領として継続。

1638年、信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承。

1656年、信之が隠居し、信政が松代藩藩主となる。沼田領は、信吉の子・信利が継承。

1658年2月、信政が死去し、その相続を巡って真田本家と真田信利との間でお家騒動が起こる。これにより沼田領は沼田藩として独立。信利が初代藩主となる。

1658年10月17日に信之が死去。享年93。

1681年、信利の暴政と、10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易され、沼田藩は廃藩。以降1703年まで一時期、天領となる。

1682年、沼田城は破却され、堀も埋められてしまう。

ちなみに沼田藩は本家の松代藩に対抗して、沼田城の天守を五層にし、江戸藩邸も松代藩邸に引けをとらない豪勢な作りに改装した。

この当時、五層の天守があるのは、関東で沼田城のほかは江戸城だけである。

真田信吉。大坂の陣で逃走、松代藩・沼田城主。従五位下・河内守
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。
真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

小松姫の逸話

小松姫は真田信幸(信之)の正室。徳川氏譜代家臣の本多平八郎忠勝の長女。形式上は、徳川家康の養女として信幸(信之)に嫁いでいる。

関ヶ原の戦いの直前、真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)は下野犬伏で真田家のこれからを話し合った。結果、昌幸・信繁(幸村)が石田三成方、信幸(信之)が徳川家康方と真田家は二分した。

昌幸は会津上杉征伐からの上田への帰り途中、沼田城の小松姫に「孫に会いたい」というが、薙刀を持って武装している小松姫は拒否する。

夫の真田信幸(信之)が不在だったこともあるが、「敵味方に分かれているから」という理由である。昌幸は、すきあらば沼田城を乗っ取るつもりだったとさえいわれている。

ドラマ等で描かれている小松姫の有名なシーンであり、逸話である。

小松姫役は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では吉田羊が演じ、1985年NHKドラマ「真田太平記」では紺野美沙子が演じている。

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝
本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。

平八岩

真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八郎岩。,画像001

沼田城址に「平八岩」という岩がある。

1580年、北条方と由良氏の支援を得た沼田顕泰の子・沼田平八郎景義が沼田城奪還を目指して挙兵する。が、真田昌幸の調略、謀略によって金子泰清により殺害されてしまう。

昌幸は、この岩の上で沼田平八郎景義の首実検をしたと言われている。

「真田丸」第六話の終了時に「平八岩」が紹介されていたので、調べてみました。

沼田平八郎景義

ここで沼田平八郎景義について。

沼田景義(ぬまたかげよし)。1552年(天文21年)~ 1581年(天正9年)。父は沼田氏当主・沼田顕泰。摩利支天の再来なんていわれてます。

沼田へ進出してきた北条氏の対応により、上杉憲政を支持する沼田顕泰と北条家へ帰属しようとする異母兄・沼田朝憲の対立が、そのまま沼田家内紛となる。

内紛に敗れた父・顕泰とともに越後へ逃亡している。長尾景虎(上杉謙信)が沼田城へ侵攻し、勝利しても沼田城は、長尾景虎(上杉謙信)の城代支配となってしまう。

その後、平八郎景義は沼田城奪還を狙うが、沼田氏旧臣・金子泰清(母方の伯父または祖父)により殺害。これにより沼田家は断絶。

金子泰清に殺害の支持を与えたのは、真田昌幸である。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

沼田城 – Wikipedia

沼田景義 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

真田家と沼田城を軸に記事投稿してみました。

先日の「ブラタモリ」で沼田が特集されていたんですが、沼田は日本でも教科書に載るくらい有名な河岸段丘だそうです。

守るには、うってつけの地形だそうです。恐るべし真田家というか真田昌幸だと思いました・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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