宰相殿の空弁当。毛利家は関ヶ原の戦いで、戦わず弁当とは?

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この記事の所要時間: 431(文字数:2,710文字)

関ヶ原の戦いでの西軍敗北の要因を考えた時、「小早川秀秋の裏切り」「宰相殿の空弁当」は大きな原因といえる。そのどちらにも毛利家一門が関わっているのが面白いといえば面白い。成り行き上、西軍に参加した長宗我部盛親は可哀想である・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

歴史とは残酷なものなのかもしれない・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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宰相殿の空弁当

宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」における毛利氏の去就にまつわる故事である。「空弁(からべん)」ともいわれる。

宰相とは毛利秀元の官職・参議のことで、「参議」は唐名で宰相という。

西軍の総大将・毛利輝元

関ヶ原の戦いを前に、五大老の一人である毛利輝元は、石田三成や安国寺恵瓊の要請により西軍の総大将となる。

これにより、豊臣秀頼を保護する名目で大坂城に入城。徳川方である大坂城の留守居役を追い出した。

輝元は、養子・毛利秀元を大将として派遣し、自らは大坂城から出ようとしなかった。補佐には、吉川広家を任じている。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。

関ヶ原の戦い

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吉川広家は西軍が敗れると予想していて、徳川家の重臣・榊原康政、本多忠勝らと単独停戦の交渉を進めていた。

関ヶ原の戦いでは、毛利軍は徳川家康本陣の背後である南宮山に布陣。毛利秀元は、徳川軍の背後から攻撃するつもりであった。

しかし先陣・広家が出撃に反対し、道を空けないため動けずにいた。毛利軍の背後に陣取った長宗我部盛親は毛利家に対して出陣要請をしている。

これに対して秀元は、「今、兵に弁当を食べさせている」と苦しい返答をした。

そこから秀元の官職・参議(唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれている。

毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できていない。南宮山の総勢は3万3,000もの大軍であった。

毛利家一門・小早川秀秋が裏切り、東軍として戦闘を開始。東軍に寝返るものが続出したため、関ヶ原の戦いは西軍が敗北。

小早川秀秋の裏切りと南宮山が機能しなかったことは、西軍敗北の大きな要因となった。

のち大坂城の毛利輝元は本国へ引き上げた。

結果、毛利・吉川・小早川は徳川家康と戦うことなく関ヶ原の戦いを終える。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。
長宗我部盛親。関ヶ原では戦闘に参加できず、寺子屋で生計を立てる
管理人が思う長宗我部盛親は少し可哀想な人物である。特に関ヶ原の戦いなのだが、結果だけ見ると成り行き上、西軍として参加している。本戦でも「宰相殿の空弁当」でも有名な毛利秀元、東軍に内応した吉川広家のせいで動くに動けなかった。戦闘自体に参加できていない。そんな長宗我部盛親の最期は立派であったと伝わる。
長束正家。丹羽長秀に仕え、秀吉の直参に。五奉行の末席に加わる。
長束正家は、はじめ丹羽長秀に仕える。のち秀吉の直参として奉公衆に抜擢。官位は従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従。近江国水口岡山城主。五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、石田三成方の西軍に味方するが、捕らえられ切腹。管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」で俳優・平岳大さんが演じた長束正家が印象的。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

関ヶ原の戦い後

戦後、徳川家康は毛利氏の所領のうち周防国と長門国(現在の山口県)以外の全ての領地を没収。毛利氏は120万石の大大名から30万石の大名へと転落(長州藩)。

そして毛利氏と関係のある小早川秀包や安国寺恵瓊を処分している。

最初の予定では、家康は毛利氏を取り潰すつもりで、広家に周防・長門を与える意向であった。

しかし広家が家康に嘆願し、このような処分に落ち着いたといわれる。

のち広家と徳川方の交渉の事実を知った毛利秀元は憤激。

秀元の子孫である長府藩と広家の子孫である岩国領主家の間には、長く確執が残ることになる。

毛利家の新年の挨拶

徳川氏に対する毛利氏の恨みも大きかった。

毛利氏の新年の挨拶では、「(徳川討伐の戦を)いつ始めましょうか?」

「まだ時期尚早である」と言うのが恒例になったといわれる。

これは確証のある史料に基づく話ではないが、有名な話ではある。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

宰相殿の空弁当 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

考えてみると関ヶ原の戦いは、毛利家一門の去就が全てであった。

金吾中納言こと小早川秀秋の裏切り、「宰相殿の空弁当」。

治部殿と刑部殿が好きな管理人にとっては辛い出来事である。

しかしこれも運命なのかもしれない・・・。歴史とは残酷なものであることを痛感する。

そして毛利家の長州藩は、幕末の倒幕運動の中心となる・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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