徳川将軍家が左大臣兼右近衛大将(右大将)を嫌った理由

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源頼朝が武家の棟梁として右近衛大将に任官して以来、武家の慣例となった。右大臣兼右大将の徳川将軍家は左大臣の組み合わせを重視した。左大臣兼左大将なら問題ないが、左大臣兼右大将を忌み嫌った。その理由を探ってみよう。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

徳川将軍家が忌み嫌った「左大臣兼右近衛大将(右大将)」。徳川将軍家の官職に着目したみた。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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徳川将軍家が左大臣兼右大将を嫌った理由

徳川将軍家が左大臣兼右大将を嫌った理由は、室町幕府の6代将軍・足利義教と8代将軍・足利義政の官職が「左大臣兼右近衛大将」だからである。

6代将軍・足利義教は赤松満祐によって暗殺され、これが契機になり「嘉吉の乱」が起こり、幕府は衰退した。

※足利義教の父は、「日本国王」としても有名な3代将軍・足利義満。義教自身は「くじ引き将軍」としても有名。

8代将軍・足利義政は政治を顧みず、将軍継嗣問題により「応仁の乱」となり、室町幕府は機能しなくなり下克上の戦国時代へと突入する。

※足利義政の父は、6代将軍・足利義教。義政自身は、銀閣寺・正室が日野富子としても有名。

家臣に殺されたり、混乱を引き起こした人物の官職だったからである。

よって官職「左大臣兼右近衛大将」は、徳川将軍家から忌み嫌われた。

徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。
徳川御三家、徳川御三卿からの征夷大将軍就任
一般的には徳川御三家が尾張、紀州、水戸の三家、徳川御三卿は田安家、一橋家、清水家の三家である。御三家は親藩のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。御三家、御三卿を調べながら、御三家、御三卿から征夷大将軍に就任した人物の記事投稿をしてみたいと思います。

徳川将軍家の官職

徳川家葵紋

徳川将軍家の官職について。

徳川初代将軍・家康だけ征夷大将軍就任時に、左右どちらかの近衛大将を兼任してない。

家康は1587年(天正15年)12月28日、左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任。すぐにその職を辞している。

ちなみに将軍宣下の時、家康の官職は右大臣であった。

カッコ内は、征夷大将軍就任時の官職。

徳川将軍家の官位履歴一覧と徳川家康の征夷大将軍就任
徳川家康が征夷大将軍就任するまでに朝廷内ではスキャンダルが勃発した。結果、徳川家康は「源氏長者」を手に入れる。征夷大将軍が何かとクローズアップされるが管理人は「源氏長者」に注目している。家康以降の徳川将軍家の官位履歴一覧と「武家関白制」にも触れてみる。

  • 徳川家康-太政大臣、左近衛大将(右大臣)
  • 徳川秀忠-太政大臣、右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家光-左大臣兼左近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家綱-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川綱吉-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

  • 徳川家宣-内大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家継-内大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川吉宗-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家重-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家治-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)

  • 徳川家斉-太政大臣、左近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家慶-左大臣兼左近衛大将(左大臣兼左近衛大将)
  • 徳川家定-内大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川家茂-右大臣兼右近衛大将(内大臣兼右近衛大将)
  • 徳川慶喜-内大臣兼右近衛大将(権大納言兼右近衛大将)

11代将軍徳川家斉。藤原氏にあらずして位人臣を極め、大奥をフル活用
江戸幕府の11代将軍徳川家斉について。管理人の印象は、享楽的な暮らしぶりを好み、幕政をかえりみず、子沢山の「オットセイ将軍」のイメージ。征夷大将軍在位は50年と長い。明治期の文献には「藤原氏にあらずして位人臣を極めた者といえば足利義満・豊臣秀吉・徳川家斉・伊藤博文」という趣旨の記載もあるようだが。。

徳川将軍家の通常は、右大臣兼右大将。

このうち左大臣に昇進した将軍は、家光・家斉・家慶の三人。見事に左近衛大将にまで登っている。

左近衛大将から見てみても、家康・家光・家斉・家慶の四人は、生前に左大臣か太政大臣に昇進している。

左大臣兼右大将(右近衛大将)は、一人もいない。

久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道
太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。

異説はあるが、秀忠以外は「源氏長者」に任じられている。

そして慶喜以外は、生前または没後に太政大臣に昇進している。

将軍継嗣の段階で従一位に叙せられたのは徳川将軍家の中で家慶が初めてである。

権大納言兼右近衛大将

徳川将軍家で唯一人、徳川慶喜の征夷大将軍就任時の官職が「権大納言兼右近衛大将」なので少し書く。

この「権大納言兼右近衛大将」は、源頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)とされた。

記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

権大納言兼右近衛大将。頼朝以来、武家にとっては嘉例(吉例)となる
源頼朝が武家の棟梁として権大納言兼右近衛大将に任官して以来、武家にとっては嘉例(吉例)となった。近衛大将の唐名は「幕府」であることから、征夷大将軍と同様に近衛大将は重要視された。特に徳川家康は強く意識していたと思う。

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まとめ

武家の棟梁として鎌倉幕府を開いた源頼朝の官職は、権大納言兼右近衛大将。

織田信長の官職は、右大臣兼右近衛大将です。

足利尊氏・豊臣秀吉は左右どちらかの近衛大将になってません。

徳川家康は、源頼朝を尊敬していたといいますし、左右どちらかの「近衛大将」を強く意識していたはずです・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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