明智光秀との説もある南光坊天海と日光東照宮、江戸都市計画

日光東照宮陽明門-画像
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徳川家康のブレーンで朝廷政策、宗教政策に深く関与した南光坊天海。その生涯は謎が多い人物である。足利将軍義澄落胤説、明智光秀説など。。ほかにも江戸の町設計、日光東照宮にも関わりがあるとされている。そして「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた家康本陣には、天海であるとされる、鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されている。。。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

明智光秀との説もある南光坊天海。管理人が歴史はロマンだな(笑)と感じる人物でもある。。歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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天海の出自

生年は1536年(天文5年)?。没年は1643年(寛永20年)。100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。すごい(笑)。ほぼ人間50年の時代に(笑)。

三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。

ほかに足利将軍義澄の末の御子であると足利将軍落胤説。山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀が姿を変えて生き残ったという説もある。

ロマンチストの管理人としては、いい感じである(笑)。

天海の前半生

明智光秀との説もある南光坊天海と日光東照宮、江戸都市計画,アイキャッチ画像

龍興寺にて随風と称して出家。14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学ぶ。さらに近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深める。

1571年(元亀2年)、織田信長により比叡山が焼き打ちにされると、武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住する。さらに上野国の長楽寺を経る。

1588年(天正16年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗る。このへんから「天海」としての足跡が明確になる。

喜多院山門には銅像が建てられている。

喜多院住持となるが、江戸崎不動院の住持も兼任。豊臣秀吉の北条攻めには、浅草寺の僧忠豪とともに家康の陣幕にいたとする資料もある。

その後、天海は徳川家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。1607年(慶長12年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。

1612年(慶長17年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。1613年(慶長18年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。

大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わる。

天海の後半生

家康、秀忠の死後は、3代将軍・徳川家光に仕え、1624年(寛永元年)には忍岡に寛永寺を創建。

紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣、福島正則、徳川忠長など赦免を願い出ている。

これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走。

1643年(寛永20年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈。墓所は栃木県日光市。

江戸都市計画

天海は江戸の町設計にも深く関与したといわれている。江戸城を中心に、「鬼門」である北東に神田明神、上野寛永寺を配している。神田明神にいたっては場所をわざわざ移している。

「裏鬼門」である南西には、増上寺、日枝神社(日吉大社から分祀)を配している。やはり日枝神社も場所を移している。

天海は陰陽道や風水に基づいて、江戸を鎮護しようとした意図がみえる。。

日光東照宮

日光東照宮,三猿,画像

徳川家康が亡くなると、遺言により最初の1年は、久能山東照宮に埋葬された。家康の墓所は、西を向いている!

家康の神号をめぐり、金地院崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」を主張し、崇伝は「明神」を主張。

しかし、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定。家康の遺体を遺言どおり久能山から日光山に改葬した。

なぜだか日光東照宮に明智家の家紋である「桔梗紋」!そして久能山東照宮には武田家の家紋「武田菱」!!不思議だー(笑)。

明智光秀説

明智光秀,桔梗紋,画像

ここで明智光秀説を書こうと思います。。

明智光秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後、落ち武者狩りにあって命を落とし、京に首を晒されたと言われている。しかし腐敗がひどく、判別が難しかったらしい。。

史実の明智光秀はこのように言われている。

そして南光坊天海が明智光秀であると言われているのは以下の様なことがあるからだと思われる。。

日光東照宮の陽明門に2体の像がある。正面向かって左側の像の膝に明智家の家紋である「桔梗紋」がある。他の建物にも「桔梗紋」がある。

日光に「明智平」という場所がある。江戸城で南光坊天海にあった春日局が「お久しぶりです。」と挨拶をしたとかしないとか。。春日局の父は、明智光秀の重臣である斎藤利三である!

「都市伝説だよ」といわれれば、それまでなのだが。。。

そして管理人は、「南光坊天海は明智光秀である説」を結構信じている(笑)。いや南光坊天海は明智光秀であるとさえ思っている(笑)。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

天海 – Wikipedia

まとめ

う~ん。「南光坊天海が明智光秀である」ってロマンがあって好きです。それにしても南光坊天海って謎めいた人物です。

でも面白い人物でもあります。そう感じるのは管理人だけでしょうか。。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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