甘利虎泰は武田氏の家臣で譜代家老。武田二十四将、信虎・信玄初期時代の武田四天王の一人。板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕える。武田晴信(信玄)による信虎追放の主導的役割を果たす。まさに管理人のイメージも板垣信方と並んで、武田家の重臣中の重臣。まさかあの政治家・甘利明氏が子孫だったとは。。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
政治家・甘利明氏を調べていて甘利虎泰が先祖であることを知りました。ほんと調べてみるもんです(笑)。
それではいってみよう!
政治家・甘利明氏の先祖
最初に、記事投稿をしようとしたきっかけです。。
2016年1月27日夕方、 経済再生担当大臣・甘利明氏が会見を開いた。一連の騒動の経緯を説明し、大臣辞任を表明した。会見の内容は割愛します。
甘利氏の大臣辞任に関しては、ネットでは「全く潔い」「現代の武士」などの称賛の声も上がっているそうです。まあ賛否両論ですね~(笑)。
管理人がネットで甘利明氏を調べていると、あの戦国武将・甘利虎泰の子孫であることが判明した!知らなかったので、衝撃だった!!
最近、「真田丸」が放映されてることもあり、真田氏、武田氏を調べる機会が多い。甘利明氏をきっかけとして、戦国武将・甘利虎泰の記事投稿をしようと思いました。
甘利虎泰
甘利虎泰は「あまりとらやす」って読みます。
生誕は1498年(明応7年)?。死没は1548年(天文17年)。官位は備前守(自称?)。武田氏の家臣で譜代家老。武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人。
もともと甘利氏は甲斐源氏・一条忠頼の流れをくむ武田氏の庶流にあたる一族である。領地は、甲斐国巨摩郡甘利郷(山梨県韮崎市旭町付近)。
板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕える。名前の「虎」字は信虎から偏諱として与えられたもの。「偏諱」とは貴人から家臣に名前の一字を与えるということです。
1541年(天文10年)の晴信による信虎追放の主導的役割を果たす。武田家の宿老で、「甲斐国志」によれば最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされる。
1547年(天文16年)8月の信濃佐久郡の志賀城(長野県佐久市)攻めに参加し、関東管領・上杉憲政が後詰の援軍を派遣したため、虎泰は板垣信方と共に別動隊を編成して伏撃し、小田井原の戦いで大勝してこれを打ち破った。
1548年(天文17年)2月14日、武田晴信は信濃小県郡に侵攻して村上義清との間で「上田原の戦い」が行われ、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、才間河内・初鹿野伝右衛門らと共に戦死したという。
もう一人の重臣、板垣信方と同じ戦いで戦死しています。。
甘利虎泰の子孫
政治家・甘利明氏は別にして、甘利虎泰の子息には信忠(昌忠)、信康がおり、信忠が家督を継承。1567年(永禄10年)に信忠が死去。信忠の子息である信頼が幼少なため、信康や米倉丹後守が名代となり補佐。
信康は1575年(天正3年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死。1582年(天正10年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して「甘利左衛門尉」が武田家から離反しており、これが信頼にあたるとも考えられている。その後の信頼の動向は不明。
管理人の勉強不足なのか、その後の甘利家については知りませんでした。。
武田四天王
ここで武田四天王について。。
武田信虎・信玄初期には板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田昌辰(虎満)。
武田信玄・勝頼期には馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
非常に簡単ではありますが、甘利虎泰を調べてみました。政治家・甘利明氏のおかげで勉強になりました(笑)。
甘利虎泰ときたら、板垣信方。。次はもう一人の重臣、板垣信方も調べてみたいなー!「明治の政治家・板垣退助との関係」なんてね(笑)。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。