板垣信方は武田氏の家臣で譜代家老。武田二十四将、信虎・信玄初期時代の武田四天王の一人。甘利虎泰、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕える。武田晴信(信玄)による信虎追放の主導的役割を果たす。武田晴信(信玄)が家督を相続すると、家臣団の筆頭格になる。家紋は「花菱(裏花菱)」。明治の元勲・板垣退助は子孫になる。
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真田丸繋がりってわけじゃないですが、板垣信方のことを記事投稿してみたいと思います。
それではいってみよう!
板垣信方
板垣信方(いたがきのぶかた)。1489年(延徳元年)?~1548年3月23日(天文17年2月14日)。武田二十四将、信虎・信玄初期時代の武田四天王の一人。甘利虎泰、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕える。
官位は駿河守(自称?)。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。武田(晴信)信玄の傅役(もりやく)。
1541年(天文10年)の晴信による信虎追放の主導的役割を果たす。武田晴信(信玄)が家督を相続すると、家臣団の筆頭格になる。「甲斐国志」によれば、甘利虎泰とともに最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされる。
1542年(天文11年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落とす。
晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。信方は、諏訪郡代(上原城城代)に任じされる。
1548年(天文17年)2月、晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。同2月14日の上田原の戦いで武田軍は敗北し、板垣信方は甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門と共に討死した。
この「上田原の戦い」で、もう一人の重臣、甘利虎泰と同じ戦いで戦死しています。結局、「両職」といわれた二人が討ち死にします。。
武田四天王
ここで武田四天王について。。
武田信虎・信玄初期には板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田昌辰(虎満)。
武田信玄・勝頼期には馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)。
その後の板垣家の嫡流
信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、不行跡のために武田信玄によって武田家から追放され、のちに誅殺された。板垣家の嫡流は一旦断絶していた。
のち同族の於曾氏出身の左京亮信安が、板垣氏再興を武田信玄に願い出て承認され、嫡流を継いだ。
明治の元勲・板垣退助の先祖
岐阜事件の際、「板垣死すとも自由は死せず」といったと言われている明治期の元勲、政治家である板垣退助である。(実際には遭難した時、このようなことは言っていない。。)
その板垣退助が、戊辰戦役の際に、甲府城掌握を目前とした1868年(慶応4年)2月に美濃大垣で「自分の十代前の先祖が、 板垣信方の孫、正信である」として、本姓の「乾」から「板垣」へと改める。
乾家の系譜によれば、信方の子信憲が改易された際、 信憲の子である加兵衛正信は遠州周智郡乾村に籠居し、乾姓を称したという。
後の1590年(天正18年)、遠州掛川にて山内一豊に召し出され、 以後代々土佐藩山内家に仕えていた。
このタイミングで「板垣」を名乗るのは、武田信玄の領地であった甲府を通るので、武田家の重臣であった板垣信方の子孫、板垣を名乗ったほうが都合が良かったとも言われています。
ちなみに戊辰戦争には江戸を目指すルートが2つある。乾退助は東山道(中山道)ルート、東海道ルートからは西郷隆盛一行である。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
実はなんで「板垣信方」かというと、1988放送の大河ドラマ「武田信玄」を見る機会があって、板垣信方を調べたくなっちゃいました(笑)。
もちろん甘利虎泰の記事投稿の影響もあります。これで「両職」といわれた板垣信方、甘利虎泰の記事が揃いました(笑)。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。