木曽義昌の正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。武田家を離反し武田氏征伐(甲州征伐)のきっかけを作る。それにより武田家は滅亡する。木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称するが、直系の先祖は藤原北家秀郷流を称する。北条氏直、徳川家康、豊臣秀吉と渡り歩くが、最後には、木曽谷の所領を取り上げられ、下総阿知戸に移封。
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木曽義昌の織田家寝返り後は、あまり知らなかったので調べちゃいました(笑)。
もしも知らなかった人は、管理人と一緒に勉強しよう!(笑)。
それではいってみよう!
木曽義昌
木曾義昌(きそよしまさ)。1540年(天文9年)~1595年(文禄4年)3月17日。幼名を宗太郎。官位は左馬頭・伊予守。父は木曾義康。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)など。
木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称する。しかし、直系の先祖は藤原北家秀郷流を称する。
1555年(弘治元年)、武田信玄の侵攻を受けて、降伏する。信玄の娘・真理姫を妻に迎えることにより、武田家の親族衆として木曽谷を安堵される。
織田信長の調略に応じ、武田氏征伐(甲州征伐)のきっかけを作る
信玄の死後、武田勝頼は、高天神城の戦いにて徳川家康に敗北。これにより武田家の威信は失墜する。木曾義昌を含め、穴山梅雪、小山田信茂の裏切りにも繋がると言われている。
1582年(天正10年)、義昌は遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結び、義兄・勝頼を裏切る。高天神城の戦いの敗北、新府城造営の賦役増大などが考えられるのだが・・・。
1582年(天正10年)2月2日、人質の母、嫡男・千太郎、長女・岩姫は新府城で処刑されてしまう。
義昌の離反が武田氏征伐(甲州征伐)のきっかけとなり、1582年(天正10年)3月に武田家滅亡。戦功として安曇・筑摩二郡(安筑10万石)を新たに加増。
本能寺の変~天正壬午の乱
1582年(天正10年)6月、本能寺の変により織田信長が死去する。これにより信濃国内の支配権を巡り混乱する。
織田家臣・森長可が北信濃の所領を放棄して美濃へ逃亡を図る。義昌は長可の命を狙うが、逆に子の岩松丸(のちの木曾義利)の身柄を拘束され、結果的に長可の撤退を助けることとなってしまう。
ちなみに、織田家臣・滝川一益の通行も拒否しており、交換条件として小県郡・佐久郡の人質の身柄を拘束している。
上杉景勝・徳川家康・北条氏直が争う天正壬午の乱では、氏直に従う。が、甲州黒駒の戦いで家康が氏直に勝利すると家康に寝返る。これにより安曇・筑摩両郡および木曽谷の所領を安堵される。
関東転封
1584年(天正12年)に羽柴秀吉と徳川家康の対立が深まると、今度は、次子・義春を人質として秀吉に臣従する。
1590年(天正18年)、小田原征伐により北条家滅亡。これにより家康が関東移封。それに伴い秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石(2万石とも)が与えられて関東移封。
1595年(文禄4年)、関東移封によって失意のまま同地で死去。家督は義利が継承。
「真田丸」では俳優・石井愃一が演じる
木曽義昌役を演じる石井愃一だが、群馬県沼田市出身である。
ちょっと心憎いキャスティングですね~!
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
関東移封の理由には諸説ある。豊臣秀吉の小田原征伐の際に自身は病気を理由に行かず、嫡男・義利を代理として参加させたため忠誠心を疑われた。
交通の要衝にあり優れた木材を産出する木曽谷を取り上げると同時に、徳川家康を懐柔するために体よく使われたなどがある。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
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