花燃ゆの小田村伊之助(楫取素彦)は、なぜ男爵なのか

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この記事の所要時間: 447(文字数:2,871文字)

2015年12月13日に最終話が放映された大河ドラマ「花燃ゆ」で準主役の小田村伊之助(楫取素彦)を調べてみた。「花燃ゆ」を見るまで管理人の勉強不足で小田村伊之助(楫取素彦)という人物を知りませんでした。最初は長州出身なのに何で男爵止まりなんだろうと思ってましたが、「なるほど」少し納得しました。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

結局一年間、大河ドラマ「花燃ゆ」を見てしまった(笑)。それも結構楽しんで見てしまいました(笑)。

でも荒っぽくいうと、小田村伊之助(楫取素彦)、目立つような業績なにもないんだよね。初代「群馬県令」かもしれんが、しょせん地方だし。。これじゃ管理人が知らなくても仕方ないような気が。。。

調べてわかったこと、記事投稿します。それではいってみよう!

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大河ドラマ「花燃ゆ」の小田村伊之助(楫取素彦)

大沢たかおが小田村伊之助(楫取素彦)を演じてました。優香演じる杉寿と、夫婦になり、妻の死後は、その妹である主役の井上真央演じる久坂美和と夫婦になります。二人とも再婚同士です。

大沢たかお、井上真央じゃなきゃ一年間見れなかったかもwでも大沢たかおは「JIN-仁-」の南方仁に見えてしまう。意外と、そんな人多いんじゃないかな(笑)。

主役、準主役の役者としてではなく「役のキャラクター」が地味である感は否めないと思っていました。。吉田寅次郎(松蔭)、久坂玄瑞、高杉晋作らのキャラ頼みだったよね。。。

それでも一年間なんとか見れました(笑)。

小田村伊之助(楫取素彦)の維新までの経歴

それでは簡単に紹介(笑)。

文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵がいます。のちに松島剛蔵は高杉晋作の功山寺挙兵を知った俗論派が処刑してしまいます。

天保11年(1840年)に小田村家の養子となります。吉田寅次郎とは、明倫館あたりであったのでしょうか。。藩の恭順派のために、野山獄に投ぜられたこともあります。

太宰府滞在中の五卿にあったり、四境戦争の時には副使だったりしました。でも副使なんだよね~(笑)。

慶応3年(1867年)9月に藩命により、楫取素彦と改名。

慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、諸隊参謀として出征します。公卿諸藩の間を周旋し、鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至ります。

その後、新政府では参与になります。「参与」までなったのに。。

小田村伊之助(楫取素彦)の維新後の経歴

小田村伊之助(楫取素彦)背景画像01

維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞す。ドラマでは「そうせい候」毛利敬親が楫取素彦を藩に呼び戻していました。

やはり藩に戻ったのが、その後を見ると決定的かな。。明治政府の主要ポストにはつけてないので。。そのまま藩に帰らないで、明治政府にいても主要ポストにつけたかはわからないが。。。

明治5年(1872年)に足柄県参事。明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。

また「明治の三老農」の一人船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めている。楫取素彦が地方ではあるが、表舞台にたつのは、これだけのような。。

その後は元老院議官に転任する。高等法院陪席裁判官、貴族院議員、宮中顧問官等を歴任した。また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。

明治20年(1887年)「男爵」を授けられる。明治23年(1890年)10月20日、「錦鶏間祗候」となる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。

栄典

  • 1883年(明治16年)7月16日 – 正五位。
  • 1894年(明治27年)5月21日 – 正三位。
  • 1905年(明治38年)5月30日 – 従二位。

没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。

なぜ男爵?

新政府で参与になってから、すぐに藩に戻ってるのが、男爵だった決定的な原因かと思います。。もちろん、そのまま明治政府で主要ポストにつき、男爵以上の爵位を授けられたかわかりませんが。。。

地方の県令ではねー。。考えようによっては、元老院議官、高等法院陪席裁判官、宮中顧問官、貞宮多喜子内親王御養育主任等のポストは長州出身だから用意されたのではないかと。。

そんなふうに考えることもできます。やっぱり「地味さ」は拭えませんよねー。。「男爵」なのも納得です。。最終的に男爵なのに「正二位」は破格ではないかと。。。

管理人が勝手に納得したところで、おわりたいと思います。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

楫取素彦 – Wikipedia

まとめ

小田村伊之助(楫取素彦)って、地味or派手っていたら、やっぱり地味だよね。。県令後のポストなども長州閥の主要政治家が用意してくれたんではないのか。。

吉田松陰と関わりがあり、その妹二人と結婚した人だから。。松下村塾出身の政治家とかね。。。

なんか小田村伊之助(楫取素彦)が男爵だったのか勝手に納得しました。そろそろ終わりにしたいと思います。

最後に歴史認識は、管理人の個人的見解であります。間違ってるところもあると思いますが、管理人が個人で楽しんでおります。なにとぞ御容赦のほどを。。。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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