武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂の最期

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武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂。梅雪・義昌については調略に応じ、武田家から離反します。信茂は自発的な裏切りで、織田信忠により処刑されます。この3人の造反は、武田家にとって大きな痛手となり、甲斐源氏の名門・武田家は滅亡してしまいます。今回は、この3人の最期についての記事投稿をします。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂の最期についての記事投稿をします。

それではいってみよう!

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穴山梅雪(穴山信君)

穴山信君(あなやまのぶただ)。穴山梅雪(あなやまばいせつ)。甲斐武田氏の家臣で、御一門衆。母・南松院殿は武田信虎の娘で武田信玄の姉、妻は信玄の娘である見性院。

1582年(天正10年)5月、徳川家康は駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて居城・安土城を訪れる。これに梅雪も同行する。

堺見物をした翌日、1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変により織田信長が横死。家康とともに畿内を脱出しようとするが、別行動をとる。家康は「伊賀越え」

別行動をとった梅雪は死亡する。諸説あって「一揆の襲撃説」「切腹説」などがある。「フロイス日本史」では、家康とは別行動でなく、遅れていたところを一揆の執拗な襲撃に遭い殺害されたなんて記述もある。

どちらにせよ、死亡したのである。

木曽義昌

木曾義昌(きそよしまさ)。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。

天正壬午の乱を経て、羽柴秀吉に臣従する。

徳川家康の関東移封に伴い秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石(2万石とも)が与えられて関東移封。

1595年(文禄4年)、同地で死去。関東移封によって精神的にも経済的にも切迫し、失意のままであった。

木曽義昌。武田勝頼を裏切り、晩年は関東移封。
木曽義昌の正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。武田家を離反し武田氏征伐(甲州征伐)のきっかけを作る。それにより武田家は滅亡する。木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称するが、直系の先祖は藤原北家秀郷流を称する。北条氏直、徳川家康、豊臣秀吉と渡り歩くが、最後には、木曽谷の所領を取り上げられ、下総阿知戸に移封。

小山田信茂

武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂の最期,画像01

小山田信茂(おやまだのぶしげ)。祖母が武田信縄の娘かつ信虎の妹で、信玄の従甥に当たる。

1582年(天正10年)2月、織田信長による武田氏征伐(甲州征伐)が開始される。

武田勝頼が、居城・新府城から岩殿城へ逃れる途中に信茂が突如離反する。

武田家滅亡後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められる。

甲斐・善光寺にて嫡男、老母、妻、女子らとともに処刑された。享年44。

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まとめ

武田家を裏切った穴山梅雪、木曽義昌、小山田信茂ですが、そのご歴史に名を残せていません。

この3人、武田家とは深い関わりがあります。3人の裏切りにより武田信玄時代に誇った鉄の結束が崩れ、甲斐源氏の名門・武田家は滅亡しました・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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