2016年7月13日、天皇陛下が「生前退位」の御意向があるとの報道がなされた。現行の皇室典範では、「生前退位」については触れられておらず、皇室典範の見直しが必要らしい。しかし宮内庁は、この報道を否定。管理人には法律のことはわからないが、現時点(2016年7月13日)で最後の生前退位を行った光格天皇について調べてみた。
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光格天皇についての記事投稿ですが、「生前退位」についての記事投稿ではありません。あくまでも光格天皇について調べました。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
光格天皇
光格天皇(こうかくてんのう)。1771年(明和8年)8月15日~1840年(天保11年)11月18日。
閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。江戸時代の第119代天皇。在位は1780年(安永8年)11月25日~1817年(文化14年)3月22日。先代は後桃園天皇。次代は仁孝天皇。
父は閑院宮典仁親王(慶光天皇)。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師・岩室宗賢の娘)。中宮は欣子内親王(新清和院)。
幼名は祐宮(さちのみや)。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。
桃園天皇と後桜町天皇はまたいとこになる。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の御台所・倫子女王は実の叔母(実父の妹)に当たる。
摂政は九条尚実。関白は九条尚実、鷹司輔平、一条輝良、鷹司政熙、一条忠良。
皇居は土御門東洞院殿。陵所は後月輪陵。
- 誕生:1771年(明和)8年8月15日卯半刻、閑院宮邸
- 即位礼:1780年(安永9年)12月4日
- 元服:1781年(安永10年)1月1日
- 大嘗祭:1788年(天明7年)11月27日
- 崩御:1840年(天保11年)11月18日子刻、桜町殿
- 大喪儀:1841年(天保11年)12月20日
傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価
実父・閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人。
光格天皇の子女
中宮:欣子内親王新(清和院、1779-1846)-後桃園天皇皇女
- 第五皇子:温仁親王(1800)
- 第九皇子:悦仁親王(高貴宮、1816-1821)
典侍:葉室頼子(民部卿典侍、1773-1846)-葉室頼熙女
- 第二皇子:礼仁親王(哲宮、1790-1791)
- 第一皇女:能布宮(1792-1793)
- 第四皇子:俊宮(1793-1794)
典侍:勧修寺婧子(東京極院、1780-1843)-勧修寺経逸女
- 第六皇子:恵仁親王(仁孝天皇、1800-1846)
- 第二皇女:多祉宮(1808)
- 第四皇女:娍宮(1817-1819)-「娍」は女偏に成
典侍:高野正子(督典侍、1774-1846)-高野保香女、園基理養女
- 第八皇子:猗宮(1815-1819)
典侍:姉小路聡子(新典侍、1794-1888)-姉小路公聡女
- 第五皇女:永潤女王(倫宮、1820-1830)-大聖寺門跡
- 第八皇女:聖清女王(媛宮、1826-1827)
- 第十皇子:嘉糯宮(1833-1835)
掌侍:東坊城和子(新内侍、1782-1811)-東坊城益長女
- 第七皇子:桂宮盛仁親王(1810-1811)-桂宮第10代
- 第三皇女:霊妙心院宮(1811)
掌侍:富小路明子(右衛門掌侍、?-1828)-富小路貞直女
- 第六皇女:治宮(1822)
- 第七皇女:蓁子内親王(1824-1842)-宝鏡寺
- 第九皇女:勝宮(1826-1827)
掌侍:某氏(長橋局)-父不詳
- 皇女:受楽院宮(1792)-流産。皇子説あり
生母未詳
- 皇女:開示院宮(1789)-流産。皇子説あり
在位中の元号
在位中の元号を記述。
- 安永:1772年11月16日~1782年4月2日
- 天明:1782年4月2日~1789年1月25日
- 寛政:1789年1月25日~1801年2月5日
- 享和:1801年2月5日~1804年2月11日
- 文化:1804年2月11日~1818年4月22日
後継候補者
最初は閑院宮家から聖護院に入寺し出家する予定であった。
1779年(安永8年)10月29日、後桃園天皇が崩御。後桃園天皇には内親王しかおらず、皇子がいなかった。
世襲親王家から新帝を迎えることになった。
後継候補者は3人。
- 伏見宮貞敬親王
- 閑院宮美仁親王
- 祐宮師仁親王(美仁親王の弟)
先帝の唯一の遺児・欣子内親王を新帝の妃にするという構想により、近衛内前は貞敬親王を、九条尚実は師仁親王を推薦した。既婚の美仁親王は候補から外れた。
光格天皇の即位
新帝候補者の会議を行う。
話し合いの結果、
- 貞敬親王は年下で内親王とも年が近いが、世襲親王家の中で創設が最近であった。
- 師仁親王は天皇と血筋が近い
という理由で師仁親王が養子として迎え入れられた。
- 1779年(安永8年)11月25日、践祚(せいそ)。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。
- 1780年(安永9年)12月4日、即位。
※践祚(せいそ)とは、天子の位を受け継ぐこと。先帝の崩御または譲位によって行われる。
先々帝・後桜町上皇は皇嗣継承のために伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就くことはなかった。
- 1782年(天明2年)、京都御所が焼失したため3年間、聖護院を仮御所とする。
- 1799年(寛政11年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。
- 1799年(寛政11年)1月25日、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。
天明の大飢饉のおりには、幕府に領民救済を申し入れる。ゴローニン事件では交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。
尊号一件では、天皇になったことのない父・典仁親王に太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかった。しかし事件の影響は尾を引き、尊王思想を助長する結果となった。
- 1794年(寛政6年)3月7日、欣子内親王を中宮に冊立。
- 1800年(寛政12年)1月22日、温仁親王が誕生。
- 1800年(寛政12年)3月7日、温仁親王を儲君に治定。
- 1800年(寛政12年)4月4日、温仁親王が薨去。
- 1807年(文化4年)7月18日、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を儲君に治定。
- 1809年(文化6年)3月24日、恵仁親王を皇太子とする。
生前退位
光格天皇は博学多才で学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ。また400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。
平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越された。
- 1817年(文化14年)3月22日、仁孝天皇に譲位。
- 1817年(文化14年)3月24日、太上天皇となる(2016年7月時点でこれが最後の太上天皇)。
- 1840年(天保11年11月18日)、崩御。宝算69歳。
現在の皇統は、光格天皇から続いているものである。
最近の歴代天皇
光格天皇からの歴代天皇。
- 119代ー光格天皇
- 120代ー仁孝天皇
- 121代ー孝明天皇
- 122代ー明治天皇
- 123代ー大正天皇
- 124代ー昭和天皇
- 125代ー今上天皇
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
まとめ
キッカケは光格天皇が、生前退位を行い、最後の太上天皇であるということでした。
現在の皇統が、光格天皇から続くというのは知っていたのですが、詳しくなかったので勉強になりました。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。