北条氏政。大河ドラマ「真田丸」では徳川家康演じる内野聖陽が「早雲より四代目、関八州の覇者たる誇りと自信を背負い込む」と評している。父は名将と評された北条氏康。そして氏政は隠居の身であったが、小田原北条氏を滅亡させた事実上の当主としてのレッテルがついてまわる。後北条氏4代当主・北条氏政とは・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
北条氏政に関しては評価が低すぎると思っているのだが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
北条氏政
北条氏政(ほうじょううじまさ)。1538年(天文7年)~1590年(天正18年)7月11日。父は北条氏康。母は瑞渓院(今川氏親の娘)。
幼名は松千代丸。通称は新九郎。号は截流斎(せつるさい)。官位は左京大夫、相模守を称す。
兄弟は新九郎、氏照(大石定久の婿養子)、氏邦(藤田康邦の婿養子)、氏規、氏忠(佐野宗綱の養子)、上杉景虎(三郎:上杉謙信の養子)、桂林院殿(武田勝頼正室)、浄光院殿(足利義氏室)、七曲殿(北条氏繁室)、長林院殿(太田氏資室)、蔵春院殿(今川氏真室)、尾崎殿(千葉親胤室)、種徳寺殿(小笠原康広室)、菊姫(里見義頼継室)。
正室は黄梅院(武田信玄の娘)。継室は鳳翔院殿。
子は新九郎、氏直、太田源五郎(太田氏資の婿養子)、太田氏房(太田氏資の婿養子)、直重(千葉邦胤の婿養子)、直定、源蔵、勝千代、芳桂院(千葉邦胤室)、竜寿院(里見義頼継室)、庭田重貞室、鈴木繁光室。
猶子は上杉氏憲。養女は菊姫(氏政の妹・里見義頼正室)、皆川広照室(実父は中御門宣綱)、小山秀綱室(実父は成田氏長)、上杉氏憲室(実父は北条氏繁)。
墓所は神奈川県足柄下郡箱根町の金湯山早雲寺。首塚は源立寺(静岡県富士市)。戒名は慈雲院松巌傑公。
後北条氏4代当主
1538年(天文7年)、第3代当主・北条氏康の次男として生まれる。
兄・新九郎が夭折したために世子となり、北条新九郎氏政と名乗る。
- 1554年(天文23年)、父・北条氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立。信玄の娘・黄梅院を正室に迎える。
- 1559年(永禄2年)、父・氏康が隠居。北条家の第4代当主となる。
父・氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続く。
父・氏康との両頭体制
氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成といわれている。
- 1561年(永禄4年)、小田原城の戦い。上杉謙信が関東・南陸奥の大軍とともに小田原城を包囲。盟友・武田信玄の支援もあり、上杉軍を撃退。
- 1564年(永禄7年)、第2次国府台合戦。氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利。
- 1564年(永禄7年)、武蔵・岩槻城主太田資正の長男・氏資を調略。武蔵の大半の支配権を確立。
第4次川中島の戦いで上杉謙信が被害をうけると、信玄と呼応して北関東に侵攻した。上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返す。
第2次国府台合戦の処理により上総に勢力を拡大。上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら北条家に帰順。
氏政が武蔵の大半の支配権を確立したのち、謙信は武蔵・羽生城などを拠点として対抗した。
- 1566年(永禄9年)、上杉方の上野・由良成繁が氏政に帰順。佐野昌綱・北条高広らも氏政に帰順した。
- 1567年(永禄10年)、三船山の戦い。里見義堯・義弘父子が上総奪還のため侵攻。氏政敗退。上総の支配権を失う。
上野・由良成繁らが氏政に帰順したことで上野にも勢力を拡大。氏政の従兄弟で古河公方・足利義氏の重臣・簗田晴助とも一時的に和睦。
駿河侵攻~三方ヶ原の戦い
駿河・今川氏は1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで当主・義元が討死してから、領国経営が上手くいっていなかった。
- 1568年(永禄11年)12月、信玄による駿河侵攻。武田・今川間の関係も悪化しており、甲駿関係は手切れとなった。
- 1569年(永禄12年)9月、三増峠の戦い。信玄により小田原城が攻撃。籠城して武田軍を撃退。甲斐へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みた。
信玄の駿河侵攻により、氏政の義弟・今川氏真(妹・早川殿の夫)は没落。北条氏は駿相同盟により今川家に加担し、甲相同盟も破綻した。
氏政は薩埵峠まで進軍して武田軍に対抗。武田家から離反した三河・徳川家康と和議を結び、氏政は氏真を保護。
次男・氏直を氏真の養子とし、今川家の家督を継承させた。これにより駿河領有の正当化を主張。武田信玄と対抗するために宿敵・上杉謙信とも越相同盟を結ぶ。
越相同盟では、弟・三郎(のちの上杉景虎)を謙信の養子(人質)として差し出し、上野の支配領域を割譲している。
信玄との関係悪化により、愛妻・黄梅院と離縁することとなった。夫婦仲は極めて良かったらしい。
甲斐へ引き上げる武田軍を挟み撃ちにする計画は失敗した。
追撃が遅延した氏政の到着を待たず、三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃を開始したため挟撃にならなかった。
それから予備戦力・津久井衆が武田方・加藤丹後によって押さえられて出陣できていない。
進軍を早くするため小荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指した武田軍に敗北し、甲斐への帰国を許してしまった。
- 1570年(元亀元年)、信玄が駿河併合。北条家の駿河支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけであった。
- 1571年(元亀2年)10月、父・氏康が死去。
- 1571年(元亀2年)12月、甲相同盟により信玄との同盟を復活。謙信との越相同盟を破棄。
- 1572年(元亀3年)、信玄が西上作戦により三河・織田領国へ侵攻。
越相同盟は対武田対策として十分な成果を得られなかった。両家の戦略観の違いがあり、謙信も越中平定に力を注ぐようになっていた。
三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利している。大藤秀信(初代・政信)が戦死。
上杉・武田と争う
甲相同盟復活後、上杉謙信との戦いが再び始まった。
- 1574年(天正2年)、謙信が上野に進出。利根川で対陣。謙信の関心は越中にあり、決戦になっていない。
- 1574年(天正2年)閏11月、簗田晴助の関宿城を攻め落とす。父・氏康は関宿城を重要視しており、「一国に等しい城」とまで称した。
- 1575年(天正3年)、小山秀綱の下野・祇園城を攻め落とす。
下総・結城晴朝が恭順するなど氏政の勢力は拡大し、上杉派の勢力を関東からほぼ一掃。
- 1577年(天正5年)、上総に侵攻。宿敵・里見義弘と和睦(房相一和)。嫡男・氏直が初陣。
- 1578年(天正6年)、上杉謙信が死去。後継者を争い謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の間で御館の乱がおこった。
御館の乱がおこった時、氏政は下野で佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であった。
- 1578年(天正6年)5月、景虎援助のために氏照、氏邦らを越後に派遣。
- 1578年(天正6年)8月下旬、氏政は景虎援助のため、上野の厩橋城まで出陣。すぐに小田原へ引き返した。
氏政は義弟・武田勝頼(妹・桂林院殿の夫)にも援軍を依頼。勝頼は景虎支援のため北信濃に出兵したが、上杉景勝は北信濃の上杉領や上野・沼田の割譲を条件に勝頼と甲越同盟を結ぶ。
- 1578年(天正6年)8月、勝頼により景虎・景勝間を調停し和睦が成立していたが、勝頼が撤兵中に和睦は破綻した。
- 1579年(天正7年)、景勝が御館の乱を制した。景虎は自害。その後、勝頼の妹が景勝に嫁いだ。
氏照・氏邦は秋に本格的に越後入りを計画していたが、坂戸城で抵抗され冬・積雪になり無念の撤退をしている。
氏政は景虎の敗死により甲相同盟を破棄。三河・徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃した。
- 1580年(天正8年)、重須の合戦。勝頼を攻めたが決着はつかず。
- 1580年(天正8年)3月10日、織田信長に臣従を申し出た。信長は石山本願寺を降伏させていた。使者は板部岡江雪斎。
- 1580年(天正8年)8月19日、氏政が隠居。在陣中の異例であり、父・氏康と同じく北条家の政治・軍事の実権は掌握。
上野では勝頼の攻勢が続き、上野・下野国衆も武田方に味方したため北条家は劣勢になった。
天正壬午の乱
1582年(天正10年)2月、織田信長が甲州征伐を開始。総大将は嫡男・織田信忠、軍監は織田四天王・滝川一益。
北条家は伊勢からの船による情報により、織田の武田領国侵攻を確認した。呼応するように駿河の武田領に侵攻。
1582年(天正10年)3月11日、天目山の戦い。勝頼は正室・桂林院殿と共に自刃。甲斐武田氏は滅亡。
信長は滝川一益を上野・厩橋城に派遣して関東管領(諸説あり)とした。一益には上野西部と信濃の一部を与え、関東の統治を目論む。
北条家は信長の娘を氏直の正室に迎えることを条件に、織田家の分国として関東一括統治を願い出ていた。しかし信長からの明確な回答はなかったようである。
一益の仲介により、下野・祇園城を元城主の小山秀綱に返還するなど、織田家の関東支配に協力している。
氏政は信長の勢いを恐れており、織田家との友好関係は保たれていた。一益の文書では関東・北条領は南方と呼ばれ、重視されていた。
氏政は端山(たんざん)という人物を使者に、信長に祝儀のための贈り物をしたと伝わる。五百羽の雉などを贈呈している。弟・氏邦を一益に出仕させている。織田家と友好関係を保つことを切望していた。
信長はというと北条氏に好意的な対応を見せていない。縁談も円滑には進まなかったのではないかという見解もある。
1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。京都・本能寺において信長が明智光秀の謀反により死去。
信長の死を知った氏政は、一益に引き続き協調関係を継続する旨を通知している。しかし氏政は深谷に軍勢を差し向けた。
一益も呼応して軍勢を差し向けたため、数日後には対立関係となる。両者の間で合戦が勃発した。
氏直・氏邦に上野奪取を命じ、5万6千と称する大軍を上野に侵攻させ滝川軍と対峙。北条軍は滝川軍の3倍の兵力であった。
緒戦こそ先鋒が打撃を受けたが、数日後の決戦には大勝し一益を敗走させた。神流川の戦いである。
北条軍は敗走する一益を追って、碓氷峠から信濃に進出。真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠などを取り込み小諸城に駐屯し、信濃東部から中部にかけてを支配した。徳川家康傘下の依田信蕃らを討っている。
家康は空白地帯の甲斐に侵攻。依田信蕃を通して真田昌幸を調略し、徳川方の小笠原貞慶への肩入れなどにより北条軍と対立した。天正壬午の乱である。
織田家は甲斐・信濃・上野を失い、織田家重臣・滝川一益は失脚。
後北条氏の最大版図
若神子の戦いでは、甲斐・若神子において氏直と家康が対陣。信濃では真田昌幸が離反し、黒駒合戦でも弟・北条氏忠、甥・北条氏勝が徳川方の鳥居元忠らに敗北。
北条家は対陣が不利になり、氏直と家康の娘・督姫を結婚させることで和睦した。甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで合意したが、信濃佐久・小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は北条家にとって不利な講和条件であった。
家康についた真田昌幸は、後に上野・沼田城を北条に明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返った。真田家は上田・沼田城にて徳川・北条と抗戦し、沼田問題さらに名胡桃城奪取事件の伏線となった。
上杉景勝は柴田勝家へ対抗するため羽柴秀吉と同盟した。景勝は謙信が就任した関東管領を強く意識していた。北条家には敵意を燃やしており、討伐の意思は強かった。
- 1583年(天正11年)、古河公方・足利義氏が死去。官途補任により権力を掌握し、関東の身分秩序の頂点に立つ。
- 1585年(天正13年)、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻める。氏政は那須氏らと手を結んで本格的に下野侵攻を開始。
氏政は下野の南半分を支配下に置いた。常陸南部の江戸崎城・土岐氏、牛久城・岡見氏を支援し、常陸南部にも勢力を及ぼした。
北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石となり最大版図を築き上げた。
小田原征伐
早雲以来、最大版図を築き上げた北条家であったが豊臣秀吉との対立が待っていた。
- 1588年(天正16年)、秀吉は氏政・氏直親子に聚楽第行幸への列席を求めたが、氏政は拒否。
- 1588年(天正16年)8月、弟・北条氏規を名代として上洛させる。北条・豊臣間の関係は一時的に安定。
- 1589年(天正17年)2月、評定衆・板部岡江雪斎が上洛。沼田問題の解決を秀吉に要請。
弟・氏規が上洛した頃、氏政は実質的に隠居をすると宣言している。
秀吉の沼田裁定は沼田領の3分の2を北条家に還付するものであった。
- 1589年(天正17年)6月、氏政上洛は12月となる。
- 1589年(天正17年)7月、沼田領が北条家に引き渡された。
氏政は上洛について1590年(天正18年)の春夏頃の上洛を申し入れたが、秀吉は拒否。北条・豊臣間の関係は再び悪化し始める。
1589年(天正17年)10月、名胡桃城奪取事件。秀吉の沼田裁定による沼田城受取後、北条氏邦家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の支城・名胡桃城を奪ってしまった。
秀吉は諸大名に対して1590年(天正18年)春の北条氏追討の出陣用意を促した。秀吉は津田盛月・富田一白を北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求している。
氏直は上洛できない理由を以下のように弁明している。
- 氏政抑留か国替えの噂がある。
- 家康が上洛する際には、朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上での上洛であった。
- それに対し名胡桃城奪取事件における北条氏に対する態度との差。
名胡桃城奪取事件については氏政・氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、既に名胡桃城は真田方に返還したと弁明している。
氏政上洛については、徳川家康・上杉景勝よりも風下になることに屈辱感を感じていたのではないかという見解がある。徳川家より北条家の方が格は上だと認識している節があったといわれる。
反北条氏の上杉景勝や佐竹義重、北関東の諸豪族は早くから秀吉と接近していた。これにより秀吉も北条家に対して非協調的、冷淡であったと指摘されている。
- 1589年(天正17年)12月23日、秀吉は諸大名に正式に北条家追討の陣触れを発した。
- 1590年(天正18年)3月、関白・豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。
当初は碓井峠を越えてきた真田・依田に対して勝利したりと戦意旺盛であった。しかし秀吉の沼津着陣後に緒戦で山中城が落城。
4月から約3ヶ月に渡って小田原城に籠城。領国内の下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等の諸城が次々と落城。
一月以上に渡り、北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって繰り広げられた議論が「小田原評定」の語源になったと言われている。
ついに物資豊富な22万を数える豊臣軍の前に降伏。降伏の条件は、
- 武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
- 氏直が上洛する。
というものであった。
しかし秀吉は和睦の条件を破り、氏政らに切腹を命じ、氏直らを高野山に追放すると決めた。
1590年(天正18年)7月5日、氏直が自身の切腹による助命嘆願。しかし願いは叶えられず、秀吉は北条氏の討伐を招いた責任者として氏政・氏照、宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。
1590年(天正18年)7月11日、氏政・氏照が切腹。享年53。
辞世の句は、
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
家康の娘婿であった氏直は助命された。1591年(天正19年)8月には秀吉により1万石が与えられたが、1591年(天正19年)11月に死去。
後北条氏の系統は氏規が継承し、氏直の領地1万石の一部も継承。その後は氏規の子・北条氏盛が狭山藩主となり、明治維新まで存続した。
逸話
後世成立の「北条記」では、
「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった」
と評されている。
北条5代の当主の中で「君」も付けられていない当主は氏政だけだ。
北条氏政の逸話は、一般に知られているものの多くは否定的な印象を与えるもので、後世の創作も多い。
汁かけ飯
氏政の有名な逸話として2度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。
これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話た。
この逸話は後世の創作で、同様の内容は毛利氏の元就と輝元の間の話としても伝えられている。
麦の話
「甲陽軍鑑」に記載されている話より。
農民が麦刈りをする様子を氏政が見て、「あの取れたての麦で昼飯にしよう」と言ったという話である。
刈った麦がそのまますぐ食べられる訳でなく、干し、脱穀し、精白するなどして、ようやく調理できるようになる。
武田信玄はその無知ぶりを大いに笑ったというが実証はなされていない。
大河ドラマ「真田丸」では高嶋政伸が演じる
大河ドラマ「真田丸」では北条氏政を高嶋政伸が演じる。
俳優・高嶋政伸の演技が凄いです!見てるものを惹き込みます。
第24話「滅亡」が楽しみです。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
前述してますが、北条氏政の代で早雲公以来、最大版図となった。
織田信長には時勢を見て、積極的に接近してます。秀吉の時は、「どうしたんだろう・・・。」というくらいに、頑なに上洛を拒否してます。
結局、これが小田原征伐の要因の一つになります。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。