後北条氏5代当主である北条氏直。どうしても最後の当主のイメージがある。父・氏政が存命であったこともあるが、何かイメージが悪かった。小田原開城後、父・氏政は切腹になったが、氏直は赦免されている。徳川家康の婿であったことも大きいが、氏直は北条家再興のこれからという時に死んでしまった・・・。
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真田丸の影響で後北条氏が好きになりました。北条氏直について調べてみました。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
北条氏直
北条氏直(ほうじょううじなお)。1562年(永禄5年)~1591年(天正19年)11月4日。父は北条氏政。母は黄梅院(武田信玄の娘)。養父は今川氏真。後北条氏の第5代当主、相模国・小田原城主。
幼名は国王丸。別名は新九郎、見性斎。官位は従五位下・左京大夫。
兄弟は新九郎、太田源五郎、氏房、千葉直重、直定、妹(千葉邦胤室)。
正室は督姫(徳川家康の娘)。子は宝珠院殿(池田利隆室)、摩尼珠院殿。養子は氏盛、妹(千葉邦胤室)。
墓所は早雲寺(神奈川県箱根町)、海蔵寺(広島市西区)。戒名は松巌院太円宗徹。
後北条氏5代当主
1562年(永禄5年)、父・北条氏政の次男として小田原城で生まれる。母は武田信玄の娘・黄梅院。兄の新九郎は早世。
- 1568年(永禄11年)末、武田信玄による駿河侵攻。
- 1571年(元亀2年)、祖父・氏康が死去。父・氏政が当主となる。武田氏との甲相同盟が回復。
- 1577年(天正5年)3月、元服。古河公方・足利義氏にはじめて書状を送る。
- 1577年(天正5年)11月、上総国に初陣。
氏直は没落した今川当主・今川氏真の猶子として家督を相続。氏真の正室・早川殿は叔母。将来の駿河領有権を目論んだが、駿河は武田家の領国となった。
安房国の里見義弘と和睦し、氏政の娘が里見義頼に嫁ぐことで北条氏と里見氏は長年の敵対関係から同盟関係になる(房相一和)。
1580年(天正8年)8月19日、父・氏政が隠居。氏直が家督を継いで北条家の第5代当主となる。北条家の実権は父・氏政が握る。
天正壬午の乱
1578年(天正6年)、越後・上杉氏が御館の乱により甲斐・武田氏と甲越同盟を締結。
これにより後北条氏は、再び甲斐・武田氏と敵対関係になる。尾張国・織田信長と同盟を結び、武田勝頼との戦いに備えた。信長の娘を氏直の正室に迎える予定もあったようだ。織田家への使者は板部岡江雪斎。
- 1581年(天正9年)、三島で叔父・武田勝頼と戦う。決着はついていない。
- 1582年(天正10年)3月、信長による甲州征伐。武田氏滅亡。勝頼らは討死。
武田氏の遺領は、信長により家臣に与えられた。甲斐は河尻秀隆、信濃国の一部と上野国の西部は滝川一益。一益は関東管領を自称。
- 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変により信長が自害。河尻秀隆は土豪一揆で殺害。氏直は叔父・北条氏邦らと共に4万3千を称する大軍をもって上野侵攻を開始。
- 1582年(天正10年)6月16日、氏直は倉賀野表(群馬県高崎市)に進出。本庄に本営を置き、富田、石神に布陣。
- 1582年(天正10年)6月18日、金窪城で滝川軍と北条軍は激突。初戦は氏邦が率いる先鋒が敗退。
- 1582年(天正10年)6月19日、神流川の戦い。氏直本軍が一益軍に勝利。
一益は敗走。氏直は上野国から信濃国に侵攻。佐久郡・小県郡を支配した。諏訪へ進軍し諏訪頼忠を味方に付け、木曾義昌(正室は叔母・真竜院)とも連絡を取り信濃中部地方を制した。
1582年(天正10年)8月、氏直は甲斐北西部の若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く。徳川家康は新府城を本陣に七里岩台上に布陣。甲斐・若神子城において対陣。
氏直は「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」ということで領有を強く望んだ。徳川軍との対陣は80日間に及ぶ。いわゆる「天正壬午の乱」。
北条家に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反、家康方の依田信蕃がゲリラ活動を行い北条軍の補給路は脅かされた。
黒駒合戦では別働隊の北条氏忠・北条氏勝が、甲斐国八代郡黒駒(山梨県笛吹市御坂町)にて徳川方の鳥居元忠らに敗退。
織田信雄・信孝兄弟の調停があり、1582年(天正10年)10月27日、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立。
1583年(天正11年)8月15日、家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐ。
小田原征伐
氏直は徳川家との同盟後、下野・常陸方面に侵攻し勢力を拡大した。佐竹義重、結城晴朝、太田資正らを圧迫。
中央というか近畿では織田家重臣・羽柴秀吉が台頭した。秀吉は関白になり関東惣無事令を発令して私戦を禁止。
- 1587年(天正15年)、氏直は秀吉との戦いを意識し、軍備増強に務める。
- 1588年(天正16年)8月、徳川家康の仲介を受けて、秀吉との交渉のため叔父・北条氏規を上洛させる。秀吉の実力も認識していた。
父・氏政、叔父・氏照ら強硬派、氏直・叔父・氏規ら穏健派が対立と言われているが、そうでもなかったようである。
各種書状より、上野・沼田城受取り後の氏政は上洛に前向きであったことが明らかとなっている。一概に氏政が強硬派とは決めつけられない。
氏規上洛直後から、氏政は政務に一切口出しをしなくなったことが確認されている。
- 1589年(天正17年)、名胡桃城奪取事件。秀吉の沼田裁定による沼田城受取後、北条氏邦家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の支城・名胡桃城を奪ってしまった。
- 1590年(天正18年)、関白・豊臣秀吉による小田原征伐。
名胡桃城奪取事件は惣無事令違反であるとして、秀吉との関係は事実上破綻。
氏直は秀吉側近の津田信勝・富田知信に対して弁明、家康にとりなしを依頼。しかし家康は小田原征伐に関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛しており、家康への依頼は実を結んでいない。
1590年(天正18年)3月、箱根・屏風山等の陣場を巡検。山中城落城により小田原城で籠城。
籠城は4月から3カ月に及び、秀吉の大軍による小田原城は完全包囲された。水軍による封鎖、支城の陥落、重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴が秀吉に内応しようとした。事前に政晴は氏直に成敗されている。
- 1590年(天正18年)7月1日、氏直は和議を決意。
- 1590年(天正18年)7月5日、秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ。自身の切腹で将兵の助命を請い、秀吉に降伏。
秀吉は氏直の申出について感じ入り、家康の婿であったこともあり助命された。
父・氏政、叔父・氏照、宿老・大道寺政繁、松田憲秀は切腹を命じられた。
- 1590年(天正18年)7月11日、氏政・氏照が切腹。
- 1590年(天正18年)7月12日、氏直が紀伊国・高野山へ登ることが決まった。
- 1590年(天正18年)7月21日、氏直が小田原を出発。
一門では太田氏房・千葉直重・北条直定・北条氏規・北条氏忠・北条氏光が同行。家臣では松田直秀・山角直繁・遠山直吉・山上久忠・内藤直行(内藤綱秀息)らが同行したといわれる。
1590年(天正18年)8月12日、高野山に到着。高室院にて謹慎生活を送った。以後「見性斎」と称す。
晩年
1591年(天正19年)1月、氏直は赦免活動を開始。
- 1591年(天正19年)2月、秀吉から家康に赦免が通知。
- 1591年(天正19年)5月上旬、大坂で旧織田信雄邸を与えられた。
- 1591年(天正19年)8月19日、秀吉と対面。正式に赦免と河内・関東に1万石を与えらる。
- 1591年(天正19年)8月27日、小田原から督姫が大坂に到着。
家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなう。
1591年(天正19年)11月4日、大坂で病死。享年30。
多門院日記によれば、死因は疱瘡であったとされている。
氏直の死後
氏直の死後、氏規の嫡子・北条氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続。
1598年(慶長3年)、氏規の跡を継いで1万1千石の大名となる。北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続。
氏直の長女は夭折。次女は池田利隆の許婚となったが1602年(慶長7年)に17歳で病死。
氏直の逸話
氏直が「北条」を名乗った文書は1通も存在しないようである。その署名は左京大夫氏直、見性斎氏直などである。
小田原城開城のおり、秀吉の使者・黒田孝高に感心し、家宝の「日光一文字」の太刀、北条白貝などを贈っている。
「北条記」では氏直を以下のように評している。
「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった」
大河ドラマ「真田丸」では細田善彦が演じる
大河ドラマ「真田丸」では北条氏直を細田善彦が演じる。
ネットでは「ヤンキー」などと表現されていたこともあったが、第23話「攻略」では父・北条氏政(高嶋政伸)の説得のため小田原城に入った源次郎信繁(堺雅人)に頭を下げている。
変われば変わったものだ(笑)。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
北条氏直は、これからという時に死んでしまった。
死因は病気らしいのだが、あまりにタイミングが良すぎるので、何かあるんではないかと思ってしまうのは管理人だけではないだろう・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。