滝川一益、「真田丸」では段田安則が演じてます。管理人の勝手なイメージは、甲賀出身で忍者の匂いもして、鉄砲の名手というひどく荒いイメージでした。本能寺の変後は、羽柴秀吉と柴田勝家にばかりで滝川一益に気がまわりませんでしたw甲賀出身で忍者のイメージは、漫画「花の慶次」の影響です。きっとw織田四天王、織田五大将でもあります。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
「先方も殿も一益」と織田信長に言われた滝川一益。武田討伐から晩年までをまとめてみました。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。
それではいってみよう!
目次
滝川一益
滝川一益(たきがわいちます/たきがわかずます)。1525年(大永5年)~1586年(天正14年)9月9日。父は滝川一勝もしくは滝川資清(同一人物説あり)。母は不詳。
官位は従五位下左近将監・伊予守。織田四天王、織田五大将。
滝川一益が織田信長に仕えるまでの半生は不明である。
出身は甲賀出身説があるが、志摩国人・九鬼嘉隆の仲介や長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。
武田討伐、関東経営
1582年(天正10年)、織田信長は武田討伐(甲州征伐)を画策し、嫡男の信忠を総大将にして信濃国へ攻め込ませた。
2月12日、滝川一益もこれに同行し、出陣。一益は、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となる。
一益はこの甲州征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げてる。
3月23日に功績として一益は上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられ、同時に東国取次を命じられている。
役名は「関東守護」「関東ノ主」「関東御警護」「関東管領」などが伝わってます。
最初は上野箕輪城、次に厩橋城に入り、関東経営にあたる。また沼田城には滝川益重、西毛の松井田城には津田秀政、佐久郡の小諸城には道家正栄が入った。
滝川一益と上野の国、名器といわれた珠光小茄子(じゅこうなすび)
逸話として、領地よりも、茶器(名器とも呼ばれた「珠光小茄子(じゅこうなすび)」)を所望したが叶わなかったことを悔しがったといわれている。
なんともすごい話である。一益が与えられた領地は、上野一国と信濃の小県郡・佐久郡である。その領地よりも茶器を所望したなんて・・・。
一益は北伊勢に広大な領地を持っていたにせよ、「茶器」の価値が相当であったということがわかる逸話である。
結局、名馬「海老鹿毛」と短刀を拝領してます。
本能寺の変の影響
1582年(天正10年)6月2日、明智日向守光秀の謀反により織田信長は本能寺にて自害します。いわゆる本能寺の変ですね~。
滝川一益が本能寺の変を知るのは、6月7日。一益は、織田信雄・信孝を守り、明智光秀と一戦交えて、弔い合戦をしようとしていたようである。
本能寺の変を知っていた北条氏政は、6月11日の書状で、協調関係を継続することを一益につたえている。が、北条家は上野侵攻を確定していたのである。
信長から旧武田領の統治を任されていた森長可らの織田家家臣たちは、相次いで逃走。河尻秀隆にいたっては、殺害された。
またしても旧武田領は物騒な状況になる!
神流川の戦いの敗走
1582年(天正10年)6月16日、小田原城の北条氏直、鉢形城主・北条氏邦、北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野へ侵攻。
滝川一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃つ。
18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌19日の合戦では北条勢が勝利。これが神流川の戦い(かんながわのたたかい)である。被害は、滝川勢が約2,000、北条勢が約500といわれている。
18,000VS56,000では・・・。やっぱきついよねー・・・。
6月20日夜、一益は、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いた。太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、箕輪城を出発する。
織田家に寝返ったはずの木曽義昌に通過を拒まれる。小県郡、佐久郡の人質を引き渡すことで通過することができる。その中には依田康国や真田昌幸の老母が加わっていた。
途中、清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後、7月1日に領国である伊勢に帰る。
清須会議
ここで清須会議について。
1582年、(天正10年)6月27日に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議。
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。滝川一益は参加できていない。直前の神流川の戦いの敗戦により参加を拒まれたという説があります。
織田家の新当主は、羽柴秀吉が推す三法師(織田秀信)に決まり、ほか領地の再分配が行われた。これにより羽柴秀吉は天下統一の道へ爆心!!
清須会議に参加できなかった一益の織田家における地位は急落するのである・・・。
賤ヶ岳の戦い
清洲会議後、信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を推した羽柴秀吉と信長の三男・織田信孝を推した柴田勝家の対立は激化する。滝川一益は勝家に味方する。
1583年(天正11年)正月元旦、一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れる。
4月23日に北ノ庄にて自害、4月29日には信孝も自害し、一益は孤立。残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。
これにより一益は、所領を全て没収。京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居。
知りませんでした、一益は、出家してるんですねー・・・。伊勢の所領は信長の次男・織田信雄のものとなる。
小牧・長久手の戦い、そして晩年
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いが勃発。織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた。
滝川一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は羽柴秀吉に隠居から呼び戻される。賤ヶ岳の戦いとは異なり、秀吉方となるのである。
最初、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略、蟹江城を奪取して、幸先が良かったが山口重政の守る大野城の攻略には失敗。
家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲される。一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽き7月3日に開城した。
退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は船で伊勢に逃れる。
7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、一益自身にも3千石を与えられたが、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。
同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平交渉をすすめる。
小牧・長久手の戦い後は、天徳寺宝衍、山上道及らと秀吉の東国外交を担う。
1586年(天正14年)9月9日、死去。享年は62。
管理人は、東国経営後の滝川一益は、あまり知らなかったので勉強になりました・・・。
織田四天王、織田五大将
ここで織田四天王について。
あえて次に織田五大将があるので、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀とした。
「木綿藤吉郎、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」のとおりだとしたら、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、木下藤吉郎(羽柴秀吉)なのだが・・・。
同様に織田五大将がある。
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉。
滝川一益と俳優・段田安則
「真田丸」では段田安則が演じてます。1996年の大河ドラマ「秀吉」でも滝川一益を演じてます。感慨深いものを感じますねー・・・。
「秀吉」での清須会議は、北条に敗れた滝川一益が、ボロボロの姿で参加してるシーンがあったような・・・。記憶違いだったら、ごめんなさい。
だから一益は、清須会議にはかろうじて参加してるもんだと思ってました・・・。調べてみるもんです(笑)。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉って織田信長が譜代の家臣だけではなく、能力次第で取り立てる典型のような武将たちです。
滝川一益は、大河ドラマ「真田丸」でも真田家が織田家の家臣になってから、深く関わる人物です。
以上、管理人の「ボヤ」っとした頭の中を整理してみました(笑)。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。