山上宗二。秀吉に追放され、北条氏に仕える。著書「山上宗二記」

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千利休の高弟である山上宗二。茶匠としては豊臣秀吉に仕えてるが、二度までも秀吉によって追放される。著書には「山上宗二記」「茶器名物集」「茶の湯珍書」がある。小田原征伐のおり、またもや秀吉の怒りを買った。三度目の追放はなかった・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田丸では描かれなかった山上宗二について記事投稿する。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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山上宗二

山上宗二(やまのうえそうじ)。1544年(天文13年)~1590年(天正18年)4月11日。堺の豪商(町衆)、茶人。千利休の高弟。

屋号は薩摩。号は瓢庵。本姓は石川氏。子は山上道七。

忌日は2月27日(新暦では4月1日)という説もある。

著書は「山上宗二記」「茶器名物集」「茶の湯珍書」。

漫画「へうげもの」(山田芳裕作)では、主人公の古田織部の好敵手として描かれている。

山上宗二の生涯

山上宗二。秀吉に追放され、北条氏に仕える。著書「山上宗二記」,画像01

千利休に20年間、茶の湯を学んだ高弟。

茶匠としては豊臣秀吉に仕えてる。一説には織田信長にも仕えたともいわれる。

  • 1584年(天正12年)、理非曲直の発言で秀吉の怒りを買い浪人となる。のち前田利家に仕える。
  • 1586年(天正14年)、再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れる。
  • 1588年(天正16年)、この頃から自筆の秘伝書「山上宗二記」の写本を諸方に授けている。

のち小田原に下って北条氏に仕えた。

1590年(天正18年)、関白・豊臣秀吉による小田原征伐。利休を介して秀吉と面会。

秀吉は再登用しようとしたが、仕えていた北条幻庵に義理立てしたため秀吉の怒りを買った。

耳と鼻を削がれ打ち首。享年46。

箱根湯本の早雲寺に追善碑がある。

千利休を評する

山上宗二の「山上宗二記」は、天正年間の堺衆の茶の湯の基本史料となっている。

師匠・千利休については、利休の急激な侘びへの傾斜には戸惑いを隠さず、

「山を谷、西を東と茶湯の法度を破り、物を自由にす」

と批判めいた見解を書き残している。

千利休(宗易)。織田信長の茶頭から豊臣秀吉の側近へ、わび茶を完成
堺の商家の生まれで、商人・茶人の千利休(宗易)。わび茶(草庵の茶)の完成者であり、「利休七哲」など数多くの弟子を抱え、茶聖と称された。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠。天下人・豊臣秀吉の側近の一面もあり、茶人として名声と権威を誇った。「黄金の茶室」の設計でも有名だが、利休の茶道とはかけ離れたものだろう・・・。

板部岡江雪斎との関係

北条家重臣・板部岡江雪斎は茶道にも造詣が深く、小田原・北条氏に身を寄せていた茶人・山上宗二と親交を持った。

のちに秘伝「山上宗二記」を贈られている。

板部岡江雪斎。北条三代の外交僧、北条滅亡後は秀吉・家康に仕える
北条三代(氏康・氏政・氏直)に仕えた外交僧・軍師である板部岡江雪斎。後北条家滅亡後は豊臣秀吉・徳川家康に仕えている。千利休の高弟・山上宗二と交流があり、和歌・茶の湯にも造形が深かったと言われる。愛刀の江雪左文字は国宝であり、執権・北条氏(北条時行)の子孫とされる。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

山上宗二 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

1996年放送の大河ドラマ「秀吉」では、山上宗二の死が利休切腹に繋がるように描かれていたような気がするが・・・。

記憶に自信がないので、今回は書かないようにする。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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