甘利虎泰、武田二十四将で重臣№2。政治家・甘利明氏の先祖でもある
甘利虎泰は武田氏の家臣で譜代家老。武田二十四将、信虎・信玄初期時代の武田四天王の一人。板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕える。武田晴信(信玄)による信虎追放の主導的役割を果たす。まさに管理人のイメージも板垣信方と並んで、武田家の重臣中の重臣。まさかあの政治家・甘利明氏が子孫だったとは。。
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甘利虎泰は武田氏の家臣で譜代家老。武田二十四将、信虎・信玄初期時代の武田四天王の一人。板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らと共に武田信虎時代から仕える。武田晴信(信玄)による信虎追放の主導的役割を果たす。まさに管理人のイメージも板垣信方と並んで、武田家の重臣中の重臣。まさかあの政治家・甘利明氏が子孫だったとは。。
小山田茂誠は真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)の義兄になります。真田信繁(幸村)の最後の手紙が小山田茂誠に宛てた手紙になります。正室は真田昌幸の長女で、信幸(信之)、信繁(幸村)の姉・村松殿。小山田信茂刑死後、いったんは北条氏政に仕えるが、その後真田昌幸、信幸(信之)に仕える。そして真田松代藩の次席家老を代々つとめる。
一般的には徳川御三家が尾張、紀州、水戸の三家、徳川御三卿は田安家、一橋家、清水家の三家である。御三家は親藩のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。御三家、御三卿を調べながら、御三家、御三卿から征夷大将軍に就任した人物の記事投稿をしてみたいと思います。
徳川家康のブレーンで朝廷政策、宗教政策に深く関与した南光坊天海。その生涯は謎が多い人物である。足利将軍義澄落胤説、明智光秀説など。。ほかにも江戸の町設計、日光東照宮にも関わりがあるとされている。そして「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた家康本陣には、天海であるとされる、鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されている。。。
江戸幕府の11代将軍徳川家斉について。管理人の印象は、享楽的な暮らしぶりを好み、幕政をかえりみず、子沢山の「オットセイ将軍」のイメージ。征夷大将軍在位は50年と長い。明治期の文献には「藤原氏にあらずして位人臣を極めた者といえば足利義満・豊臣秀吉・徳川家斉・伊藤博文」という趣旨の記載もあるようだが。。
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
真田家の祖といわれる真田幸隆、真田昌幸親子の官位について調べてみました。真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。そして「真田丸」で描かれてる真田昌幸親子の官位という視点から記事を投稿します。
開拓使官有物払下げ事件は連続テレビ小説「あさが来た」でも触れられてます。北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値、無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となったスキャンダル事件に発展。のちに明治十四年の政変のきっかけとなる。
映画「のぼうの城」を見る機会があったので、行田市忍城について調べました。おもに成田氏と忍城の戦いについての記事投稿をします。忍城の戦いは日本三大水攻めの一つに数えられる。石田三成が落城させることができなかったあの戦いである。つけくわえるならば豊臣秀吉の小田原攻めの最中の戦いである。忍城を治めていたのが成田氏です。
徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?について考えてみます。結論から言うと「源氏長者」が必要だったからです。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、どちらにしても「源氏長者」は必須だったのではないかと思ってます。