長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。
浅井家の旧領(近江長浜)12万石。秀吉は本格的な家臣団を形成する。羽柴秀吉の出世は、長浜城築城から始まったと言っても過言ではない・・・
目次
長浜城
長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町の豊公園内にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。
「バサラ大名」として有名な京極道誉(ささきどうよ・佐々木高氏・ささきたかうじ)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。
長浜城の概要
別名は今浜城。城郭構造は平城。築城年は1573(天正元年)年、築城主は羽柴秀吉。
- 主な城主:羽柴氏、柴田氏、山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系)
- 廃城年:1615(慶長20年)年
- 遺構:石垣、堀
- 指定文化財:市指定史跡
- 再建造物:模擬天守
羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。
長浜城の歴史
1573(天正元年)年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領。当時、今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名。
長浜城の資材は、小谷城で使われていた資材や竹生島に密かに隠されていた材木などを使用した。
1575(天正3年)年、1576(天正4年)年頃に長浜城が完成し、秀吉が入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。
- 1582(天正10年)年、本能寺の変後、清洲会議。
- 1583(天正11年)年、賤ヶ岳の戦い。のち山内一豊入城。その後、6年間在城。
- 1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により長浜城は全壊。
清洲会議により、長浜の支配権は柴田勝家が獲得。柴田勝豊(勝家の甥)が長浜城の守将として入城。
賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に攻められ、柴田勝豊は城ごと降伏。
- 1606(慶長11年)年、内藤信成・信正が城主。長浜藩。
- 1615(元和元年)年、大坂夏の陣。内藤氏は摂津高槻に移封、長浜城は廃城。
資材の大半は彦根城の築城に流用。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。
大通寺(長浜市内)の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。知善院(長浜市内)の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元された。市立長浜城歴史博物館として運営。
長浜城築城の意味
羽柴秀吉は小谷城攻めの論功行賞により、最初は小谷城を与えられ小谷城を本拠とした。
しかし周囲には敵はおらず、山城である小谷城に固執する必要はなかった。生活上の不便さを解消するために琵琶湖畔に新しい城を築いたとされてきた。あくまでも秀吉の考えとしてという見方がつよかった。
反対に長浜城築城は、秀吉の主君・織田信長の意向が強いという意見もある。明智光秀の坂本城と羽柴秀吉の今浜城(長浜城)で琵琶湖を押さえるというものだ。
信長は、のちに安土城を築いている。坂本城・長浜城・安土城のトライアングルの完成である。
管理人には後者の意見のほうがしっくりくる・・・
豊臣秀吉公像
画像は豊臣秀吉公像。場所は長浜城天守閣跡にある。
「関白太政大臣・豊臣秀吉公像」と銘打たれてるのは何ともそそる・・・
画像は長浜城天守閣跡碑。
長浜城址の所在地および交通アクセス
- 住所:〒526-0065 滋賀県長浜市公園町10−10
- 電話番号:0749-63-4611
- 営業中:9時00分~17時00分
模擬天守は、市立長浜城歴史博物館として運営されてます。管理人は朝早かったので営業時間前でした。
残念なのは、スケジュールの都合により「太閤井戸」を見れなかったこと・・・
長浜城址に隣接するテニスコート横の駐車場に駐車しました。
秀吉公と石田三成公 出逢いの像
画像は「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」。JR長浜駅東口。
三献の茶
現地説明板より
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩りの途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから五キロメートル東の長浜市石田町の士豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。
「三献の茶」は、秀吉と三成を語る上で有名な話ですよね。
長浜駅周辺
画像は「JR長浜駅東口」。
画像は長浜市観光PRキャラクター「三成くん」。逆光ですみません。
画像は「山内一豊屋敷跡」。
画像は「長浜城御蔵屋敷跡」。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
まとめ
「太閤井戸」を見学できなかったのは非常に残念です・・・
管理人にとっての「長浜城」は、羽柴秀吉の出世街道の始まりの城というイメージ!
あくまでも模擬天守でありますが、思ったよりも小さかったというのが印象でした。
ほとんど遺構が残っていないのが残念・・・
お読みくださってありがとうございました。それでは。