源頼朝が武家の棟梁として権大納言兼右近衛大将に任官して以来、武家にとっては嘉例(吉例)となった。近衛大将の唐名は「幕府」であることから、征夷大将軍と同様に近衛大将は重要視された。特に徳川家康は強く意識していたと思う。
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武家にとっての官職「権大納言兼右近衛大将(右大将)」。その官職に任官された代表的な武将(足利義満・織田信長・徳川将軍家)を紹介する。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
近衛大将
最初に近衛大将(このえのだいしょう)について説明する。
日本の律令官制における「令外官」の一つで、宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。
※令外官とは、律令の令制に規定のない新設の官職。
- 左近衛府-左近衛大将(さこんえのだいしょう)
- 右近衛府-右近衛大将(うこんえのだいしょう)
が置かれた。
略して「左大将」「右大将」ともいわれる。定員は各1名。権官はなし。官位相当は従三位。
常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。
権大納言兼右近衛大将
1190年(建久元年)、源頼朝は権大納言と右近衛大将に任じられた。すべてはここからはじまる。
わずかな期間で両職を辞しているが、朝廷と自身の権威づけに成功させ、鎌倉幕府確立への道筋となる。
近衛大将の唐名は「幕府」であり、右大将就任をもって鎌倉幕府の成立とする見方もある。
最近、鎌倉幕府成立は1185年(文治元年)、諸国への地頭の設置で幕府成立が有力なようである。
3代将軍・源実朝は右大将よりも高位の左大将を望み、最終的には「右大臣兼左近衛大将」に任じられている。
足利義満
1378年(永和4年)、源頼朝の嘉例により、室町幕府3代将軍・足利義満は「権大納言兼右近衛大将」に就任。
以後、義満の官位官職の昇任は速く、最終的に太政大臣に至った。これ以降、足利将軍が右近衛大将に任官することが慣例となる。
織田信長
1573年(元亀4年)7月、織田信長は足利義昭を追放。事実上、室町幕府は滅亡。
1575年(天正3年)11月、権大納言・右近衛大将に任ぜられる。義昭の官職・近衛中将の上位に立つ。
これは足利将軍にかわる天下人の地位を象徴した。
信長は以後「上様」と呼ばれ、将軍と同等とみなされた。
徳川将軍家
江戸時代、左近衛大将の地位を独占したのは摂家。例外的に徳川家康・家光・家斉・家慶の4名が任じられている。
右近衛大将は基本的に清華家にのみ任じられた。
公家とは別に、員外の武家官位として、徳川将軍家の近衛大将任官が通例となった。江戸幕府において右大将といえば、ふつう将軍家世子の事を指す。
将軍後継者の王道は、元服時の官位が従二位・権大納言、将軍宣下と同時に正二位・内大臣兼右近衛大将となるパターンだ。
そしてこの徳川将軍家、官職「左大臣兼右近衛大将(右大将)」を忌み嫌った。
理由等々は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
権大納言
代表的な武家である平清盛・源頼朝・足利尊氏・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は「権大納言」に任じられている。
このうち、
- 平清盛-太政大臣
- 織田信長-右大臣
- 豊臣秀吉-太政大臣
- 徳川家康-太政大臣
が生前の最高位の官職である。
足利尊氏は死後に、従一位・左大臣、太政大臣が贈られ、織田信長は従一位・太政大臣、正一位が贈られている。
大納言という官職が太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣への登竜門であるだけに、当たり前なのだが・・・。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
織田信長が幕府を意識していたかわからないが、足利義満は源頼朝の嘉例として「権大納言兼右近衛大将」に就任。
徳川家康も自身が左近衛大将に任官されていたこともあり、嫡男・秀忠に近衛大将任官を望んだ。結果、秀忠は右近衛大将に任じられている。
源頼朝と同様に、征夷大将軍への道筋を作ったのだろうか・・・?
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。